|
≪ 活動知らせる一助にと… ≫
先日、私の勤めている日本財団は都バスの車体に広告を載せることにした。私は広報費というものを極度に切り詰めているのだが、同時に財団というものは徹底してどのようなことにお金を使ったかの情報公開をするのは当然だ。そのための広報には、或る程度の出費をすることも止むを得ない、と思ってずっとその方針を貫いて来た。
近年、私は思いついてシンガポールのバスに英語、マレー語、中国語、タミール語の四か国語で「日本財団は三十年間、マラッカ・シンガポール海峡の灯台とビーコンを支援しています」という広告をつけて走らせることにした。
日本のタンカーの八割はこの海峡を通過するのだからこれは当然だと思うのだが、それまでその事実を外国ではほとんど公表したことはなかった。「日本財団」などという固有名詞は誰も覚えはしないだろうがそれでいいのだ。ただ「日本」がマラッカ・シンガポール海峡の安全のために働いているらしいよ、と記憶されればそれでいいと思ったのである。
同じように都バスにも、日本財団が国内の公益福祉やボランティア・サービスで働いているのを知って利用してほしいから、都バスの広告を買いたいと考えたわけである。
広告の原案は、財団がスポンサーの一人でもあった長野パラリンピックのポスターの作者である斎藤順一氏に引き受けてもらった。このポスターは盗まれるほどの人気だった。斎藤氏は、モンゴロイド、ネグロイド、コーカソイドのそれぞれに属する肌の色をした赤ちゃんを二人ずつ登場させて異色のデザインを完成させた。
≪ 差し出がましい審査の数々 ≫
しかしそれから都庁の審査という名の「指図」が始まったのだ。
どの写真家でも、トリミングというものをしない人はいないだろう。赤ちゃんの顔を横向きにしたり、頭の部分をわざと少し画面から切ったりすることは、写真を扱う上で当然の技法である。それを都側は「身体障害者に対する配慮から頭の一部が切れているのはいけない。また赤ちゃんの顔が大きすぎたり人数が多すぎたりすると通行人に圧迫感や恐怖感を与える」という理由で変更を要求して来たのである。
健康な赤ちゃんの顔が六人並んでいるのに、圧迫感と恐怖感を感じる大人は珍しいだろう。いるとしたら、それこそ小説の世界で取り上げたくなるような、深く歪んだ心理的過去を持つ子供嫌いの異常者である。トリミングによって頭の一部や手が画面に出ていない人物は障害者だ、というばかげた感覚には、説明をしてもむだであろう。
その画面にはヌードもピストルも登場しない。色も原色ではない。コピーの字数もひらがなでたった七字。個人の名前を売るような文言も一切ない。
≪ まかり通る「検閲制度」 ≫
都側は広告が目立ち過ぎるのは困る、とも言ったという。目立たない広告は、駄作である。そしてまた目立たないものに、誰が金を払うと思うのか。そんな分かりきったことも都庁の役人には理解されていないのだ。都庁は背の高い建物だが、その感覚もまた頭が高い。与えられたデータだけで判断すれば、審査係のお役人は美術も分からなければ、常識もない人物であろう。それよりさらに悪いことは、都バスの広告を認可する職権を乱用しているとしか思えないことだ。都民から集めた税金で仕事をしているのだが、自分が生殺与奪の権利を持っているかのように、権威を振り回す人がまだいるのである。
私はデザイナーの斎藤氏に電話をかけ、「先生がせっかく作られた名作に『ああだ、こうだ』と難癖をつけて、全く迫力をそぎ取られた作品でも、どうしても出されたいと思われるのでしたら、財団としても再考いたします。小説にこのような制約を加えられる場合は、掲載を辞退するものですが」と言った。斎藤氏もご自分の美学をねじ曲げてまで出したくはない、しかし財団から依頼されたものだから、仕方がないかと考えていた、ということであった。
こんな検閲制度を敷いている都バスの広告など二度と出そうと思わなくなって、実に気分がすっきりした。私は昨年、国税とは別に、東京都に一千百十四万円の税金を払った。その分だけ言いたいことを言わせてもらってもいいだろう。都庁の役人も、美術の分野は自分にはよくわからないという深い畏れと尊敬を持ち、常識ある、謙虚で柔軟な心を持つ公務員になることだ。
|
|
|
|