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大分前、私の『神の汚れた手』という小説がイタリア語に翻訳された時、イタリアの各地で講演をさせられたことがあった。当然、日本におけるキリスト教の立場にもいささか触れたのだが、一人のイタリア人の新聞記者が講演の後で個人的に私に質問をしに来た。 細かい内容は忘れてしまったのだが、その時聖書の中の一節が話題に出た。日本語なら私は聖書の引用を、大体において正しく、細部においてやや不正確、という程度に引用することができる場合が多いのだが、英語の聖書はあまり使わないから、話すとなると内容の意訳をするほかはない。 彼は該当カ所を思い出せず、聖書の読み方が足りない私は、どの福音書の何章の何節という指摘もできず、回り道の説明を繰り返して「これはコマッタ」と当惑していると、彼が突然解決策を見つけたように言った。 「ギリシア語で言ってください。それならお互いにわかるでしょう」 私は再び恥じた。私は聖書の一部に使われているギリシア語を習ったことはあるのだが、全体を言うことなどとてもできない。 考えてみると、相手はごく普通の若い新聞記者である。別に聖書学者やキリスト教の聖職者という人でもない。それでも、この程度の教養はごく普通のことなのだ。 十一月十九日付けの朝日新聞で教えられたのだが、中学校社会科の歴史分野から「ルネサンス」が削除され、教科書にも載らないのだそうである。理由は「世界の歴史はわが国の歴史に直接かかわることがらに限定した」からなのだそうだが、こういう考え方をする文部省の役人は、教育の世界から一刻も早く引退してもらわないと、子供たちは甚大な被害を被る。ヨーロッパの旅をして博物館や美術館や中世の建築物を見て、ルネサンスという観念なしにやっていけるという発想に私など驚嘆する。 ヨーロッパに行き、ヨーロッパ人と付き合うことになって、「ルネサンスって何ですか」ということになったら、そういう日本人はボキャ貧以上に、教養も何もない、相手にするに足りない人物だと思われるだろう。 その代わり、慰安婦の話を削ればいいのである。「古来、戦争の結果として、掠奪・強姦・破壊・放火などが勝った側の戦士の褒美と考えられ、またその軍の行くところ、徴発その他多くの非人間的な行為が、当然のことと認められるという野蛮な発想が、実に第二次世界大戦後まで続いた。日本もその例外ではなかった」で済ませればいいことである。 私たちがイタリアの新聞記者程度の教養を全員持たなくてもいいかもしれないが、日本人の考え方はいつも島国根性の自己中心的である。シンガポールなどは、新聞も折りあるごとに自国の中の違う宗教の解説を繰り返し載せている。世界の中のほんの一部を占める日本という意識と、日本中心の歴史観とはどれだけ違うかに、時々改めて驚かされる。
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