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新国立劇場の開場記念公演の「アイーダ」は、画期的な成功と言っていいだろう。 ホセ・クーラのラダメス、マリア・グレギーナのアイーダは、共に存在感のある歌い手だが、私が最も打たれたのは演出のフランコ・ゼッフィレッリ氏の仕事である。或る意味では、舞台はオーソドックスな設(しつら)えなのだが、背景のレリーフは日本製だそうで、みごとな重厚な仕上がりとなっている。演出は空間とタイミングを繊細に捉(とら)え、計算し、小気味いいばかりに無駄のない、それでいて押しつけがましさのない、思考の奥行きを許すものになっており、緻密に練られた短編小説の構造にも似た軽やかな緊張に輝いている。 エチオピア王の娘アイーダはエジプト王女の女奴隷になっている。エジプト王女は英雄ラダメスを愛しているが、彼は王女の女奴隷アイーダを愛している。やがてラダメスはエチオピアに出兵し、エチオピアを打ち負かし、アイーダの父を含む捕虜たちを捉えて凱旋する。有名な凱旋の場では、曲の推移と共に、各部隊の旗を持った兵士たちが次々に入場する。曲と舞台が、寸分隙のない密接な繋がりで展開する。演出の醍醐味である。 藤原歌劇団合唱部や東京シティ・バレエ団だけでなく、分厚いオペラのファン層が、捕虜や槍持などの役で特別出演している。こういうエキストラだけでも百数十人。中には在京の大使館員が兵士として出ているのもいるという。それらの群衆役でも楽ではない。立つ位置、動作、ポーズなど、すべて厳密な演技指導に従わなければならない。 今まで、私は「アイーダ」を外国の舞台ばかりで見ていたので、今回初めて日本語の字幕で脚本の魅力を細部まで理解することができた。エジプトに舞台を借りた華やかな叙事詩的な物語と片づけてはいけない、今も充分に今日的な要素をストーリーの細部が持っているのは、驚くべきことである。 用意されたエジプト王女との結婚の前日、自分の置かれた苦しい立場を知ったラダメスは、愛する祖国と神に仕えてエジプトに留まるか、それとも愛するアイーダと共に彼女の祖国エチオピアへ逃れるかの決断を強いられる。 ラダメスは、敵国エチオピアを荒涼たる砂漠の国だと思っている。しかしアイーダにとって祖国エチオピアは、エジプトのように暑い不毛な国ではなく、緑に満ちた涼やかな国なのだ。この辺の認識の対立は、今の時代に二つの国を見た場合、全く同じことが言えるだろう、と思う。エジプトには古来の偉大な王国としての意識があるだろうが、エチオピアの高原の人たちから見たら、湿気の多い川沿いの、古い言葉で言えば「瘴癘(しょうれい)の地」なのである。こういう感覚の落差は、今でも国際結婚の時、大きな支障となり得るだろう。 オペラは一国の文化の爛熟度を示す一つの指標である。日本はかなりいい香で成熟したようだ。これだけの「アイーダ」はぜひ再演して、もっと多くの日本人に見せてほしい。
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