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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 台湾の「多桑」(父さん)たち“複雑系”の島国紀行(下)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1997/04/22  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  複雑な過去を持つ“台湾人”
 台北で、「ホー・ヂミン」さんにお会いし、親しくお話をした。ホー・ヂミンという音からすぐ連想するのは、あのベトナムの国父であるおヒゲの「ホーおじさん」だが、ここに登場するホーさんは、それとは関係がない。ホー・ヂミンさんは、「何既明」と書く。
 何さんの先祖がどこからこの島に来たのかは聞きもらしたが、多分、四百年前の中国大陸の福建省あたりではないかと思う。話しているうちに、この人が司馬遼太郎の「台湾紀行」で、何ページかにわたって書かれている何既明(かきめい)さんであることがわかった。何さんの経歴は、司馬遼の本に詳しく記されている。本省人の何さんは東京の医大に在籍中、敗戦を迎えた。「生家は台北でも有数の米問屋だった。何さんはその蔵をひとつずつ売って、もういくらも残っていないという。売ったのは何さんの侠気による」と司馬遼の本にある。
 私が何さんとの縁ができたのは、まさにその“侠気”による。何さんは二枚の名刺をくれた。「淡水ゴルフクラブ会長」と「南海文化基金会長」である。何さんは持ち前の侠気から私財を投じて台北でボランティア活動をやっている。私との懇談の席に蔡焜燦さんも参加した。この人も司馬遼の本に「老台北」の名でしばしば登場する。お二人に台湾のボランティア活動についていろいろいと解説してもらったのである。
 台湾のボランティアの話はここでは省くことにする。この読物の主題は、台湾の“親日世代”である。お二人の日本語はうまい。何さんはどちらかといえば寡黙の人だが、「老台北」さんの風刺とユーモアを織りまぜた日本語にはこちらがたじたじとさせられる。
 台湾料理を楽しみながらの会話がはずむ。
??この魚は何という名前ですか。
「マナガツオですよ」
??ハッ、マナガツオ?
「戦後世代の日本の方は、サカナの名前を知らない人が多い。サバとイワシの区別もつかない若い人もいるんですってね。この魚は、“二号さん”ですよ。正面から見ると肩身が狭い。でも横にして寝かせたら部屋中、占領して威張っている。アッ、ハッ、ハッ」
 ヒラメを縦にして泳がせる情景を頭に描けば、このジョーク、たちどころにわかるはずである。ただし中年以上の人ならば。
 何さんは李登輝総統の竹馬の友であり、「老台北」こと蔡さんは、岐阜陸軍航空整備学校出身の少年飛行兵だった。そしてお二人とも日本が敗れた日までは、“日本人”であり、今は「われわれは台湾人である」と名乗っている。蔡さんは会社を幾つかもつビジネスマンであり、そのひとつであるコンピュータ関係の会社が、最近、台北の証券取引所に上場されたという。「でも、お金はあの世まで持っていけないから……」と、ボランティア活動に精を出している。そこが、同じ中国系でもお金志向の強いとされる香港人とは一線を画す台湾人であることの、誇りの証左でもあるらしい。
 この世代の台湾の本島人のひとびとに「あなたは中国人ですか」と聞くと複雑な表情をする。台湾は政治的には、中華民国であり、“中国人”でよさそうなものだが、それは違う。中国人と呼ばれると、二・二八事件(一九四八年二月二十八日、大陸から来た中国国民党軍の陳儀の為政のもとで起こった非大陸系台湾人に対する血の弾圧事件。三万人の死者が出たといわれる)を連想してしまう。だから、あえて“台湾人”を強調する。
??でも察さん、あなたのご先祖様も大陸でしょ。
「そう。でも、あれから四百年もたっている。数百年も経過すれば、大陸とは異なる民族が形成されますよ。台湾の原住民に平埔族と呼ばれる人々がいる。高雄医大の研究では、DNAは大陸の人々とは明らかに異なっている。本島人には、この人たちの血が混ざっている。だから、私は台湾民族なんだ」と蔡さんは言うのだ。民族的には血は台湾、そして文化的には戦前の日本のサムライ、ワビ・サビ、大和魂、万葉集をしっかりと継承している知識人なのである。
 台湾には言語による世代間の断絶があるようにお見受けする。日本統治時代に成人した祖父母の世代は日本語、両親の世代は台湾語、孫の世代は北京語で、モノを考える。思考の道具であり言語が違えば、文化も異なる。
 台湾映画の名作に「多桑」(中国語でこの漢字を詠むと「父さん」になる)という作品がある。この映画は、時代と人間の複雑なからみ合いがテーマである。映画の中の「父さん」は昭和四年生まれ。日本植民地時代に生まれ、日本に心からなじんでしまった。日本の敗戦後始まった反日教育の中でも、少年時代に植えつけられた日本の価値観や美意識を頑固に持ち続けてきた。主人公である息子は、そういう父さん(台湾には、とうさん、おばさんなどの日本語が、日常語として残っている)と、いつも言い争いになる。
 二・二八事件のように、圧政をしいた国民党と大陸嫌いの父さんは、主張を変えない。日本製のものなら何でも上等だといい、スポーツでもいつも日本を応援する。元炭鉱員だった父さんの生涯の望みは、まだ見ぬ富士山と皇居を見ることだった。だが肺を病んでいた父さんは六十二歳で世を去った。
 いつもケンカしていた父さんだったが、息子は、多桑の位牌に富士山を見せるべく日本に旅行する。フィナーレは親子の心の中の和解である。
 蔡さんは言う。「子は親の言うとおりにはならない。でも親のとおりになる」と。蔡さんの日本語にはなかなかの含蓄があり、台湾で日本語のニュアンスの美しさを教えられる思いだった。
 台湾の本省人の外交官、張超英さんはこう言った。
「台湾の複雑さと、台湾人の悲哀は、日本人にはなかなかわかってもらえない。百余年前は清国に“化外の地”といわれて相手にされなかった無主物の台湾、次は日本の植民地支配の五十年、そして五十年の蒋介石の支配。苦難ののち本島人の大統領がようやく誕生したのだ。日本人の観光客は大歓迎だ。だが、物見遊山とショッピングだけでなく、激動する歴史としがらみ、の中で生き抜いてきた台湾人の心にほんのちょっぴりでもいいから興味を向けてほしい」
 そう言われてみると、日本人が台湾を忘却のかなたに追いやってから、久しい。
「人と人、意気こそよけれ、さりながら、一期一会のかくもみじかき」
 老台北が、私の持参した司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズ、「台湾紀行」の裏表紙に、彼の署名とともに、一筆したためてくれた二人の遭遇記念の言葉である。
 



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