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先日、南米へ旅行した時、いろいろな人が事前にさまざまな注意をしてくれた。中でも迫力があったのは、南米で暮らしたことがある、という人の注意だった。 「決して金とか高価な宝石とか、そういうものを身につけないでくださいね。質素にしていかないと、盗まれたり、脅されて取られたりしますから」 それも本当だろう。私たちは主に貧しい人たちの町へ入ろうとしていたのだから、中には荒れた心の人もいるだろう。しかしそういう町だからこそ人情的な人もいる、とも言えるのだ。 しかし私には同時に、少しは儀礼的な服装をした方がいいスケジュールも入っていた。そんな心理的背景もあって、私は夏休みに行っていたシンガポールで、すばらしい真珠のネックレスを見つけた。四千五百円だが、珠の大きさと輝きは大したものだった。 「あらあなた、このブランドを知らないの?」 と私の友達は言った。イタリアの有名なメーカーで、彼女によれば、殊勝な技術でほんものの真珠の粉を吹きつけているのだという。そのニセモノが心憎いのは、大きさや止め金の豪華さにいろいろの種類があって、どんなにでも選べることだった。「ソノアヤコは大金を儲けたから、あんな大きな珠の真珠を買えたのよね」と世間の女性たちにひそひそ話をさせる程度のサギはできるのである。 このニセ真珠を持って行けば、どこかのお招きにも多少は格好をつけられるし、なくしてもあきらめられる、と私は思ってその真珠を今後の過酷な旅行用に買うことにした。 家に帰って、私は夫に言った。 「豪華なニセ真珠を買ったのよ。四千五百円もするの」 本を読んでいて、少しも私の話をまともに聞いていない夫は言った。 「じゃもったいないから、旅行に持って行くのはよしなさい」 夫の老後の道楽はケチだということになっているから、これはまことにまっとうな応答というべきであった。 しかしやはり私はこの「旅行用真珠」を旅仕度に入れた。そして私の悪い癖なのだが、或る正式なお招きの席の食後の会話の中で、私の真珠がすばらしいニセモノであることを言いたくてたまらなくなった。 「何て言うブランド? 私も買いたい」 と聞いてくれる人もいたが、私はラベルをちぎった瞬間に忘れてしまっていた。 しかしその席には、私の大学の後輩で、彼女自身社会的な仕事にも就いており、すばらしく頭の切れるすてきな女性がいて、言った。 「私なんか下北沢で二千五百円のを買いましたよ」 私たちは笑い転げた。こういう場合、どちらが勝ったかと言うと安い方である。すばらしい女同士の話なのだが、なぜか少しだけ心の自由と関係があるような気がする。
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