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「トリスを飲んで…」 ハワイとは何ぞや。私とハワイとの出合いについては前号で述べた。この島は、まさに「一問に百答」で、日本人にとって海外旅行先ナンバーワンの「観光立州ハワイ」という表現では、語り尽くせないものがある。 私にとって初めて訪れたハワイとは、「アメリカ合衆国ナリ」であった。現地で米国の豊かな消費社会に圧倒されたのだ。「トリスを飲んでハワイに行こう」。開高健の作ったサントリーの広告文が一世を風靡した一九六〇年代である。 二度目は、七〇年代の初期。三年半のワシントン駐在の帰途立ち寄ったホノルルで、それは、古い日本人気風の残る島であった。戦前の活字で印刷された日本語新聞。文語と口語の入り混った記事は、現代日本にはない明治・大正のジャーナリズムの薫りさえする。つまり「ハワイとは昔の日本ナリ」であった。 私の七回目のハワイ旅行は九八年。そのとき、私にとってのハワイとは、「日本があり過ぎる」であった。シャケ弁定食、釜あげうどん、いなりずし、串焼き、煮物、純米吟醸酒、ラーメン横丁、カラオケ・ボックス一万曲、厚揚げ、そしてホテルの部屋まですしの出前。 ホノルルとは、そもそも美しい空という意味で、一点の霧もない群青の空、それよりももっと群青色の海。そして大樹に咲く草花のような派手やかな大輪の花が、もし目に入らなかったら、ワイキキでなく熱海か別府の湖岸にいるような錯覚に陥ったことだろう。 この年のハワイ州観光局の統計によると、日本人旅行者は一年に二百万人、そのうち何人の旅行者が、レジャーとは異なるもうひとつの旅行の視座を、この島で見いだしただろうか。七回目のハワイ訪問で、それを強く思ったのである。 九三年十一月、クリントン大統領は、法案番号、一三〇に署名したことをご存じだろうか。これは、アメリカがハワイを併合する際、策謀があったことを公式に認めた、白人のハワイ原住民に対する謝罪だったのである。米本土の白人、そして戦後の日本人観光客にとっても、ハワイとは「南海の楽園」であった。 スチールギター伴奏で歌われるハワイアン・ミュージックなるものは、米本土の音楽産業が作った、“半白人”音楽た。ウクレレは十八世紀末、ポルトガル人が持ち込んだもの。アロハシャツは、二十世紀前半、中国人移民が作ったもので、ハワイ人固有のものではない。 だが、ハワイには、八世紀ごろから、ハワイ人の国があったのだ。ハワイ旅行のもうひとつの視座とは、それを考えることだ。ハワイの歴史をたどると、紀元前からポリネシアの部族が、南太平洋のサモア方面からやって来たものらしい。三千キロにも及ぶ海路を丸木舟で風に逆い、潮流に逆い移住し、八世紀ごろまでそれが続き、ここに古代王国が建設された。西洋との接触は十六世紀の大航海時代から始まった。ということは、ハワイも含めて日本人の太平洋における歴史は、先住民のそれに比べれば、ほんのわずかな時代であるに過ぎない。 ハワイの島々を発見した白人は、すでにアメリカに移住していたイギリスやフランスの植民地人ではない。英国人の探検家、ジュームス・クック中佐である。彼のパトロンである第四代サンドイッチ伯爵のジョン・モンターギュ海軍相は、クックに「北西航路」を見つけるよう命令した。その当時、つまり一七七〇年代のヨーロッパ人は、ロシア人の見つけたアラスカは大きな島であり、“この島”の南は海で、米国の東海岸に抜けられるものと信じていた。 クックはこの幻の北西航路を求めて、ロンドンから喜望峰経由で、すでにヨーロッパ人が発見済みであったタヒチに到着した。一七七七年のことだ。クックは、そこから白人にとっては史上初の太平洋南北横断(ポリネシア人は紀元前に丸木舟でやっている)の旅に立った。赤道無風地帯を抜け、荒涼たる北の海のアラスカに至るまで、陸地はないものと覚悟を決めていた。 キャプテン・クックの睾丸 ところが、ハプニングが起こった。緑の島々があったのだ。それがハワイであり、クックはパトロンの名をとってサンドイッチ諸島と命名した。一七七八年のことだ。 このころ、ハワイの八つの島には二十五万人のポリネシア人が暮らしていたという。「彼らはわれわれに向けて槍を振り、目玉をぎょろつかせ荒々しい仕草をした。だが言葉を交わすうちに彼らの言葉はわれわれの知る南洋諸島の人々のものとほとんど変わらないことがわかった」(ウオルター・マクドール著 LET THE SEA MAKE A NOISEから)。クック探検隊一行の一人はそう記録している。 詳細な地図を作ろうとハワイ島に何度目かの上陸を試みた際、ハワイの王の戦士に殺された。ハワイ島の西岸のケアラケクア湾にクックの記念碑がある。このとき、クックの死体は刻まれて、戦士に配られたという。 「私の先祖の一人は、クックの睾丸を恩賞としてもらった」という現地人のホラ話を、私は聞かされたことがある。 「ハワイの不幸はこのときから始まった」。ハワイ人の主権回復をめざすハワイアン・ルネサンス運動の人々はそう主張する。マクドールの著書の題名どおり、白人がハワイに来訪して以来のハワイ史は、碓かにMAKE A NOISE(騒々しくなる)であった。 クックの死後、ハワイ島生まれのカメハメハ大王(ハワイ島のコハラと、ホノルルのイオラニ宮殿前に銅像がある)が、ハワイ全島を統一、ハワイ王国を建設した。 この王国は、英国に危うく領有されそうになったがなんとか持ちこたえ、砂糖の主産と捕鯨船の基地としてつかの間の繁栄を謳歌した。カメハメハ王の血筋が絶えたことにより、カラカウア王が即位した。一八七三年、日本の明治維新の五年後である。ワイキキのメーンストリートの名称は、この王の名前からとったものだ。 カラカウア王の治世下、白人の勢力が急速に台頭し、閣僚のほとんどは白人になってしまった。カラカウア王は、ハワイ人の白人に対する劣勢を挽回しようと努め、ポリネシア人の習俗と独立を維持するため、反植民地主義太平洋諸国連合を作ろうと試みた。このへんの事情は『カラカウアの訪日仰天日記』という本に書かれているが、彼は日本を国賓として訪問し、大量の日本人の移民と王女のカイウラニ(ホノルルには、日本人観光客がよく泊まる、王女の名をとったプリンセス・カイウラニ・ホテルがある)と日本の皇族、山階宮との婚姻を要請した。 王女が日本の皇族に嫁いでいたら…… この婚姻話は立ち消えになり、ハワイ人の力は一段と劣化していった。本土のアメリカ白人の勢力は日増しに強化され、銃剣に脅されたカラカウア王はサンフランシスコで失意のうちに客死した。 「れば、たら……」の話で恐縮だが、もし日本の明治政府が皇族の婚姻を通じて、ハワイ人と手を組んでいたらどうなっただろう。歴史に「IF」は禁物だが、ハワイは、とどのつまりは、米国に併合される運命にあり、結果は同じだっただろう。もし明治政府がハワイの肩入れにもっと積極的であったならば、第二次大戦のずっと以前に、小規模の日米太平洋海戦が起こっていたかもしれない。 事実、この当時、日米間の太平洋の覇権をめぐる緊張は存在していた。 カラカウア王の跡を継いだリリウオカラニ女王の治世下、アメリカの白人たちは、クーデターを起こし、女王を幽閉し、米国政府は海兵隊と巡洋艦「フィラデルフィア」を派遣した。明治政府も「邦人保護」の名目で、巡洋艦「浪速」をこの海域に送った。リリウオカラニ女王はやむなく米国に降伏、白人による白人のためのハワイ共和国(選挙権は白人にしか与えられない)が設立され、白人のパイナップル王、ドールが大統領となった。一八九四年の出来事である。 ドールは、「日本人にも選挙権を与えよ」との運動の高まりを憂慮し、米国本土に対しハワイ併合を要請、九八年、ハワイは米国領となった。明治政府は、米国の圧倒的軍事力の優位を計算に入れると、ハワイに直接手を出すことは得策ではないと判断し、ごく小額の補償金を米国政府から受け取り、巡洋艦「浪速」に引き揚げ命令を出した。そして、米国の太平洋の覇権が確立した。 以上が、今日、年間二百万人にも達する日本人ハワイ観光客の多くの人が知らない、ハワイの悲しい近代史である。前述の法案署名はクリントンがその一部について「策謀があった」と謝罪したのだ。 ワイキキの浜辺で、毎週火曜〜木曜日の午前中、催されているKODAK SHOWは、フィルム会社の無料キャンペーンだが、もう六十年も続いており、観光客のだれもが知っている。 しかし、ここで必ず奏でられる「アロハ・オエ」の本当の意味を知る人は少ない。この歌の作曲者は、策謀で即位させられたリリウオカラニ女王で、彼女の幽閉中の作である。 「アロハ・オエ」の英語訳は「GOOD BYE」だが、その心は、「ハワイの伝統と王朝よさようなら。そしてさらばハワイよ!」なのである。
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