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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 油に関するにわか勉強  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1997/02/01  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/03  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九七年一月二日に島根県隠岐島沖で起こったロシアのタンカー、ナホトカ号の沈没事件を、私は現在、通称日本財団、正式名称を日本船舶振興会というところで働いているために、少し立ち入って知ることになった。
 たまたま私は一月十八日に常滑市で講演をすることになっていたが、そのついでに常滑のモーター・ボート競走場に挨拶に行くことにもなっていた。財団自身は、政府からは全く資金の供給を受けていない。モーター・ポート競走との繋がりを知っている人の中には、日本財団がモーター・ボート競走も主催していると思っている人がいるが、それも正しくないのである。日本財団はただモーター・ポート競走の売上の三・三パーセント(と言っても年に六百億円以上になるのだが)のお金を受けて、日本の社会と外国の福祉のために使うのが仕事である。
 お金を頂くのだから、私は会長になってから、全国で二十四カ所ある競走場に挨拶に行くことにしていたのだが、まだ半分くらいしか廻り切れていず、やっと常滑がその日程に入ったところで、ナホトカ号の事故が起きたのである。それで私はナホトカ号の船首の部分が漂着し、被害の中心となった三国へもお見舞いに立ち寄ることにした。
 この事件は私が財団で働くようになって初めての油の事故であった。そして状況を知れば知るほど、問題は複雑で、簡単には論じられないことがわかった。
 油事故の場合、日本で唯一の防除の知識や資材を持っているのは海上災害防止センターである。この組織は海上保安庁警備救難部海上防災課の所管で、会長は大阪商船三井船舶の相談役である。事業内容としては、
(一)海上保安庁長官の指示により排出油の防除のための措置を実施し、当該措置に要した費用を徴収すること。
(二)船舶所有者その他の者の委託により、消防船による消火及び延焼の防止その他海上防災のための措置を実施すること。
(三)海上防災のための措置に必要な油回収船、油を回収するための機械器具、オイルフェンスその他の船舶、機械器具及び資材を保有し、これらを船舶所有者の利用に供すること。
 この三つが大きな業務上の柱である。五人の理事・監事のうち、四人が官庁出身者だが、二人が海上保安庁警備救難監の出身、これは専門家であろう。一人が運輸省、一人が大蔵省の出である。
 日本財団は昭和四十九年から平成八年までにこの海上災害防止センターに四十二億円を支援していた。研究対象は、不燃性に近くムース化した流出油を焼却処理する新技術の開発、C重油などの高粘度の油を乳化分散させる新処理剤の開発、国内では初めての航空機を使用し散布する油処理剤の開発、横須賀に流出油防除能力向上のための訓練施設の建築などとなっている。平成八年には油処理訓練船の建造も引き受けた。
 私は事故後の第一の知識として「油流出事故は原因者負担」という原則を知ったのだが、これは実に当然のことであり、しかし同時に、こうした事故を最小限に食い止める手段を現実のものとして国が持たない言い訳を作ることになっていた。
 素人風に言えば、こういう事故はやたらに起きるものではない。だから事故に備えて、人員、資機材などの整備に金をかけられない、というのが、国の理由である。今回の事故でも、海上保安庁から防止センターに命じたのは、船首部分からの油の抜取りだけである。しかも油は、粘着性の高いC重油だった。防止センターにも適当な機材がない。また運輸省にもさしあたり機材を買う気はない。
 国がやらないからと言って、手を拱いているわけにもいかないので、一月三十日現在で、日本財団は急遽、海上災害防止センターの要請を受けて、二千八百三十九万円の補助金の支出を決定した。その内訳は海岸に漂着した油の塊を吸引して回収する油専用大型強力掃除機、ビーチ・クリーナーを一機。回収現場の海岸からドラム缶を積むトラックまで距離がある場合、油を一時貯蔵するファスタンク三基。小型漁船を使い、その舷側に簡易設置して浮いている油を回収する一時貯蔵ゴム・ボート、ランサーバージとローリー一組。海岸に付着した油膜を高圧シャワーで洗い流す時に、海に戻るのを防ぐフェンス、ビーチ・ブームを一式である。国が買わないなら、財団が買う手伝いをする他はないのである。
 油事故は、今回のように原因者がわからない場合はどうするのだろう、と思っていたら、そういう組織も別にあった。漁場油濁被害救済基金という。これは流出した油で被害を受けた漁船などが、どこに文句を持って行ったらいいか、原因者がわからない場合の救済をするのである。財団は昭和五十七年以来八億一千万円を出していた。
 海上保安庁と海上災害防止センターは事故後すぐに活動を開始していたろうが、財団の職員は一月十日に現場三国町に入っている。回収の作業をしたのではない。ボランティア調整員の補佐として、それ以来ずっと現場に常駐して東京と連絡を取り続けた。
 ただいつも同じようなパターンの反応を示す人もいた。「お宅の財団は回収作業に何人出していますか?」と聞いた新聞記者がその一人である。私たちの職場は、今後も実際の回収作業に出る人員の余裕はないだろう。九十人に満たない職員で、六百億以上の予算の仕事をしなければならないのである。新年度を目前に、たった十一人しかいない国際部などは、調査のために机の前に残っている人数の方が少なくなってしまっている。
 調整員の補佐として三国町へ送った職員の指示で財団が贈ったのは、まずお金、それにポンチョだった。ポンチョの方は最終的に三千着になった、お金は常滑へ行く朝、三国にも状況を見に立ち寄ることになり、その時私が持って行くことになった。
「いくらです?」
 とすぐに私は封筒の中身を尋ねた。新米だから、過去の実績を知らないのである。「五百万円です」と聞かされて一時間後には、私は三国町長に私的なファックスを打った。「金一封の中身は五百万円だそうですので、内通します。ご必要なものは早くお買いになるようご手配ください」という内容である。
 因みに、こういう災害に対して財団はどれだけ出して来たのだろう、と私はそれにも興味を感じた。資料を見せてもらうと、昭和四十六年以来、二十七件あるが、記憶に新しい順序で言えば、阪神・淡路大震災に際して三億円、北海道南西部地震に対して二千万円、雲仙岳噴火に対して一億円、とある。
 油というものについてしみじみ考えたのは、三国の海岸に立った時である。それまで私はてんぷら油と、ガソリンと、灯油くらいしか触ったり見たりしたことがなかった。
 油処理に関して、多くの素人(私もその一人だったが)が考えていたこと??現場で処理剤を撒く、油処理船を使う、オイル・フェンスで拡散を防ぐ??というようなことは、ことごとく絵空事に終わる場合がある、ということは、現場の油を見ればすぐにわかった。たとえば処理船に関して、私は前方から油まじりの海水を呑み込み、お腹の中で処理をして、きれいになった水を後から吐き出すという原理を使えばできないことはないだろう、と簡単に考えていたのである。
 ナホトカ号が沈んだ直後のC重油は、寒い海中を流れて三国の浜に打ち上げられた時には、もう液体ではなかった。つきたてのお餅のような感じの固体であった。
 私は料理が好きだから、時々スープのうわずみから油の部分を掬って捨て、その度に油は水より軽いことを疑ったことはなかった。しかし三国の浜では、油は水より重いのか軽いのかわからなくなっていた。C重油は水を吸って、三、四倍の重さにはなっていると言う、後で聞いたのだが、バターは油の中に水の粒子を取り込んだもので、マヨネーズは水の中に油の粒子を取り込んだものだという。「水と油」という表現や「油は水に浮く」という概念は、油の成分が飛んでいる間だけのことだそうだ。
 もはや油は、柔らかくして取るか、もっと固めて引き上げるか、どちらかという感じであった。バキュームで引くにしても温めなければ、動くような油ではない、オイル・フェンスは湾内には有効だが、外海で沈んだタンカーから流れる油を止められると思うのは甘かった。何しろ冬の海は数メートルの波高を持つのだから、油を浮かせた波は簡単にオイル・フェンスなんか飛び越えてしまう。そしてまた皮肉にも、そういう海の荒れた日に限って、船は遭難するのである。
 その日は土曜日で、浜には数百人のボランティア・グループが集まっていたが、海は荒れ出して、今日の海岸での作業は中止という放送がされているところだった。彼らボランティア・グループの働きのおかげで、海はもうどす黒くはない。浜辺も、岩陰以外は、一応白っぽく見えるまでになった。すべて人海戦術の結果である。それなのに、翌日の日曜日の朝八時半ころ見た日本テレビ系のニュース番組の中では、アナウンサーは、海が重油でべっとり黒いようなことを言っていた。
 出版物では『女性自身』二月四日号が、大阪学院大学の北本駒治教授の言葉として、「(ナホトカ号が入っている五億ドル〔約五百七十五億円〕の保険について)被害総額を完全にカバーできるかどうか。後はロシア本国の負担、日本国内での義援金、国の負担になるでしょう」とコメントしているが、この内容は私の受けた講義とはかなり違う。
 油濁の場合、保険は二種類ある。
 一つはUKPI(United Kingdom Protection and Indemnity Insurance)通称船主責任保険と呼ばれるものである。
 もう一つはIOPCF(International Oil Pollution Compensation Fund)と呼ばれる国際油濁補償基金である。これは、各国の石油受入れ量に応じて石油会社が払っているから、石油消費の多い日本は世界全体の三割を出している。この国際油濁補償基金によって漁業と清掃の部分はほとんど完全にカバーされるだろう、日本は今まで優等生で、自分で事故を起こす例も少なく、不当な要求をする国民性でもないことがわかっているから、保険金はかなり出るだろうと言うのである。しかし漁獲高の減少や、貝類に与えたダメージの後遺症や、イメージが悪くなって北陸への旅行者が減ったことなどに対する補償額はどうして計算するのかは、これからの問題だろう。
 橋本総理が北陸の蟹を食べている写真を公表したら、果たして人が苦労して働いている時に、自分は蟹を食べているのか、と非難された。
 三国へ行く時、私は財団の秘書課から「どこへ泊まりましょうか」と聞かれた。私はいつもこの辺に来る時は、芦原のB旅館に泊まることにしていた。三国は私の母方の郷里で、慶応生まれだった祖母は、戦前箱根を越える人も少なかった時代に、B旅館の奥さんと九州旅行をしたのが思い出の一つだった。
 私はちょっと考えてから「やっぱり知り合いのとこに泊まります。ただ、こういう時ですから、お高くない予算で泊めてください、と伝えてください」と付け加えた。もっともお高くない予算と言っても、こういう宿屋にそんなに安くは泊まれない。財団が私に支給する宿泊費は一万九千円ももらえるのだが、それでも少し足は出るだろう。差額は自分で払えばいいのである。
 その夜、B旅館の若主人が、ボランティアから帰って来た、と挨拶に来た。風邪が直らないのだという。気の毒に過労なのだろう。皆が家業をなげうって浜で働いている。
 私が昔からの定宿に泊まるのは、決して賛沢をしたいからではない。私は野営でも何とも思わない訓練を積んでいるし、零下二十度くらいのところでオーロラを見た時の装備もそのまま持っているから、どんなところで泊まるのも平気である。しかし皆がそんな自粛をしたら、土地の経済は疲弊してしまう。もちろん浜の清掃をするのも大きな手助けだが、観光客が泊まりに行くのも、今後の息の長い自然な支援の一つだと思っているから、私は昔なじみの宿に泊まったのである。
 しかし中にはそうでない空気もあるという。
 漁師さんたちは、漁に出るのをためらっていた。「私たちがボランティアで働いてあげてるのに、あんたたちは、自分の仕事しようって言うの?」という空気をどこかに感じるからだろう。しかしついに一日だけ漁に出たという。当然のことだろう。誰だって生活がかかっているのだ。
 三国の競艇場は事件後もずっと開いていた。しかしボランティアに「こんな時に、あんたたち競艇なんか開いて賭事なんかしてるの?」と言われたという。こういう時にこそ、地方自治体はお金が要る。その経済構造もわからず、人を責める人もいるのである。こういうのをボランティアの奢りというのだろう。
 三国の町役場は、何でもない時に私が見たら、その立派さに悪意を持つのではないかと思うほどだった。この人口二万人の町に、こういう大きな役場が要るとは今でも思えないが、今度ばかりはその豪華すぎる建物が「裏目」ではなく「表目」に出ているのがおかしかった。突然の緊急時に、大勢の救援の人や多量の物資を受け入れると、これくらいの面積も必要なのである。私のような人間の浅知恵は、こんな形で、時に運命の嘲笑を受けるのであった。
 東京へ帰って間もなく、私は夜になって財団からの電話を受けた。三国に水族館があり、イルカの水槽にはオイル・フェンスを張っていたのだが、油が入りこんで来そうな状態になったので、イルカを受け入れてくれる水族館に移したいので、その輸送費を財団で出していいか、と言うのである。土地の人たちの熱意も伝わって来るような言葉である。
「いくらかかるんですか?」
 と私は尋ねた。
「一千万円です」
 私は数秒間黙ったあげく、それを断った。人間への見舞金が五百万円なのだ。私は動物に冷たいのだろうが、人間より動物に手厚くするということには賛成できなかった。
 考えてみると、私が今まで「どうぞお使いください」と言われた権限で行使したのは、車椅子の人や盲人が一般のランナーといっしょに走るロードレースを神宮でやったことと、外国の援助先を抜き打ち調査する秘密の「忍者都隊」を作ったことだけだった。
 しかし私は、申しこまれた案件に対する拒否権だけはよく使った。そして時々は今度のように、自分の判断がよかったのかどうか、少しも自信を持てなかった。
 そんなこともあって、一月下旬になって人間への支援が千三百万円に達したところで、鳥類緊急救護のために野生動物救護獣医師会へも五百万円を出すことになった時、私はすんなりと提案に賛成することができた。
 しかし最大の収穫は、ボランティア活動が日本に定着して来たことだ。私は土地の青年たちの働きに眼を見張った。財団の若者もその連携の中に入れてもらった。辛さを共有した人々は、生涯心の繋がりを持てる。今後、日本のどの土地で災害が起きても、阪神から三国へと続いたこのボランティア活動の動きは、ますます延びて行くだろう。それは、戦後の日本の教育が、人権の名の元に利己主義だけを讃えて来たにもかかわらず、「自分をいささか犠牲にしても、人のために尽くすのは、正しくて楽しいことだ」ということを、人々が自習した結果である。
 



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