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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 見納めの光景・三峡  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/09/06  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1996/10  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この夏の後半は、中国で長江(揚子江)下りの船旅をすることになった。今までどこへでかけても、観光地へはあまり立ち寄らないような旅ばかりで、今回は異例だったのだが、私にとってはほんとうに時宜に適した嬉しい旅だったのである。私は五月に転倒して、右足の骨を二本とも折るという怪我をした。手術の結果骨は実にきれいに上がったのだが、まだ長い距離を歩くことができないので、歩かなくても済む船旅は実にありがたかったのである。
 この旅行は、私が日本財団に無給で勤めているおかげの「役得」であった。飛行機代もホテル代も自費で行ったのだが、肝心の長江下り二泊三日の船旅は、中国側の招待だった。最近では中国人にもお金持ちが増えて、家族旅行に行く人がたくさんいるので、こういう人気コースは、なかなか普通の旅行者では取れないらしいのである。
 ことに来年三峡ダムが一部できると、景観も、或る程度水没することになるから、今までのような姿は、これで見納めという時期にも当たっている。
 どうして中国の招待があったかというと、日本財団は、中国人の医学生を日本に留学させるのにかなり動いて来たのである。昭和六十二年から平成七年までに、日本財団は二十五億五千万円を助成金として負担し、一年間に百人ずつ、十年で千人の中国人医学研修生を受け入れた。やりがいのある仕事である。援助の場合でも、よく関係者のものの考え方が別れることがある。しかし病気を直すという点では、帝国主義でも、資本主義でも、社会主義でも迷うことなく一致することができる。
 留学生は中国全土から万遍なく取るというところが特徴で、来日前に日本語教育を、瀋陽か西安で六カ月間、更に長春で三カ月間行う。だから日本に来る時には、彼らはかなりの日本語理解が可能なようになって来ているのである。
 こうして日本の各地の大学や医療機関で一年間学んだ留学生たちが、そのまま日本に居ついたり、アメリカに行きたいなどと言われると、せっかくの教育が中国にとってむだにならないか、と私は心配していたのだが、説明を聞くとその危惧は全くなく、ほとんど全員が(数人の落伍者を除いて)祖国に帰り、中国ではまだあまり行われていないボランティア診療までしているという。
 今年、北京で第二次の十年間を継続するという調印式が行われ、留学生の引受先の病院や医療機関のドクターたちが参加された。中国側は自国の留学生たちを親身になって世話してくれるドクターたちに感謝の船旅を贈り、私はそのおこぼれにあずかったのである。
 出発点は重慶であった。着いたのはもう暗くなってからだったが、岡の多い町のあちこちに全く灯のついていないアパートがいたるところに目立つので、まさか停電じゃないでしょうね、とその夜は状態がわからないままに終わったが、翌朝見ると、それらはすべて新築のアパートかマンションなのである。
 中国中がすさまじい建築ブームである。上海では二寝室のマンションがざらに百万元(一千四百万円)くらいするというから、大学出の給与が十万円から十四万円ぐらいという国ではなかなか高価な買い物だということになる。
 船旅は、重慶から宜昌まで二泊三目。朝八時に出港するはずだったが、船着場近くでパトカー先導の私たちのバスが、間違った道に突っ込んだのである。そのうちにあらゆる車が、少しも譲らずにとにかく一メートルでも先に行こうとするものだから、いよいよこのもつれはほどけなくなる。この光景は、住民が徹底して自分勝手で、組織的に思考するという癖がついていないということを示していておもしろいものであった。自分が取る行動の結果が読めない人が多いということは、つまり長期予想は思考の中にないということになる。
 しかし動物的な才覚はすぱらしい。途中から横町の世話役みたいな人が出て来て、バスを誘導した。バスはまた、天才的な運転技術で長い道をパックしてどうにか窮地を脱した。東南アジアの土木の現場では、中国系の労務者が得意とするのは、綱かい部分のコンクリート打設と車両のオペレーターだという話を思い出したほどの腕前である。
 そのバスをすり抜けるように、天秤棒がしなうほど前後に林檎や野菜を満載した重そうな籠を下げた男たちが蟻のように続く。中国の田舎では、まだ天秤棒が活躍している。中国全体で天秤棒が何億本あるのかなあ、と考えているうちに船着場に着いた。
 観光船として長江を上り下りしている船は何隻あるのか知らないが、私たちの乗るのは総統一号という新しい船である。主席ではなく総統で、英語ではプレジデントと書いてある。つまりアメリカで一時期有名だった「プレジデント・ライン」を模したものに見える。全長九十メートル、幅十六・五メートル、トン数はわからないが五階建てである。私たちの部屋は、スタンダード・ツインの部屋だがバルコニーがついていて、そこに出ると、川風がいつも心地よい。泥水の長江が、そこはかとない、健康な香りを立てるのも意外であった。
 総統という名前に驚くことはなかった。他にも「皇帝」とか「プリンセス」とかいう名前のついた船にも出会った。しかし「革命」とか「躍進」とか「人民」とかいう系統の名前はついぞ見当たらないのである。
 食事は朝飯だけにはピュッフェでパンも出るが、後は徹底して中国料理である。船内にはマッサージ、サウナやジムなどの他に気功をやる先生がいたので、足の悪い私はさっそく治療を受けてみた。先生は英語を全く話さない。初めだけ同行の中国人で日本語のできる方の手を煩わしたが、二回目からは、何とかなるものである。時々暇なボーイさんが来て、片言の英語で通訳してくれる。
 それによると、私の足が骨の上がりがいい割りに歩くと腫れるのは、骨を止めている四本の釘が血の流れを阻害しているからだという漢方的解釈である。漢方では決してこういう場合、カナモノの釘を使わない。何を使うのですか?と聞くと、ヤナギの釘を使うのだという。ヤナギは限りなく人間の骨に近く、しかも再手術をして釘を取り出さなくても、自然に人間の体に吸収される、と言う。
 船は時々止まって、名所を見物する。その場合必ず船首を上流に立てる。長江の流れは結構早いらしい。どこでも「この町も三峡ダムが出来れば、ほとんど水没します」という話ばかりだ。それも、百メートル以上沈むところもあるし、七、八十メートルはざらである。三峡ダムは堤高百八十メートル、堤長三キロ、バック・ウオーターは三百九十三億立方メートルにもなる、というから、ダムによってできた湖に一億か二億立方メートルの水が溜まれば十分に有効としている日本では、想像もできない大きさである。湛水地内に住んでいて、移住を迫られる人は百二十万人だという。
 私は今までにダムの建設をかなり見て来たから絶句していると、一人の中国人が、
「お国(日本)では無理でしょうね。お国は社会主義だから」
 と冗談ではなく言ったので、やっと笑える気分になった。
 日本人と比べて、中国人民は、実質的には一度も社会主義を信奉したことがないのであろう。彼らは昔から皇帝という権威者に表向きは従う術を心得ていたから、今もその傾向は同じで党幹部にはよく従う。とにかく湖底に沈む村に住む百二十万人は少しも反抗せず、三峡ダムが環境破壊だと騒ぐような人民運動も、少くとも旅行者には目立たない。そのようなスローガンも見たことがなかった。深刻な電力不足を解消するために、環境よりも「まず生きる道を選んだんですよ」とはっきり言った人もいた。正直な言葉だった。
 一九七五年に初めて中国を訪問した私が感じたように、毛沢東はその時は秦の始皇帝とか漢の武帝とかいうような意味での毛帝であり、その時代は毛代と言ってよかった。それは少しも不自然ではない選択であった。中国では、為政者も人民も、そのような力関係に組み込まれることに慣れているのである。毛帝の時代に、有効な政治のスローガンとして便われたのが、社会主義だったということだろう。だから個人の自由を圧迫するような統治理念は決して共産党独特のものではなく、むしろそれは中国の文化としての長い歴史と伝統を示したに過ぎない。それを誤解して日本の進歩的マスコミと文化人が、勝手に踊りを踊ったのだから、ご苦労さまなことであった。
 私に土木の世界を教えてくれた先生たちは「太古から、川筋には、神がここにダムをかけよ、と命じているとしか思われない地点があるんですよ」と教えてくれたが、三峡ダムは神が命じたのか人間皇帝が命じたのか、はなはだ興味あるところである。
 三峡とは、瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三つの渓谷のことである。川幅はぐっと狭くなり、峰が迫って空は細くなる。昔は孝行な子供ほど、両親の墓を高い場所に建てようとしたということで、所々の断崖絶壁に突き刺さったような石棺が残っている。どうしてそこまで棺を持ち上げたのかは、今でもわからないのだと言う。
 二日目に、船は巴東という所に停泊し、私たちはバスで支流の一つの神農渓で川下りを楽しむことになった。この方が長江よりもずっと小味な川下りができるのである。
 神農渓の上流地点まで行くのに、私たちは古いバスで、舗装も何もない道を行ったが、この時に見た農村の風景は忘れ難い。
 田んぼではなく畑が、文字通り天まで届くほど律儀に作られていた。ただ立っていることもむずかしいほどの急斜面でも耕されている。作物は、とうもろこし、ごま、さつまいもが主だから、地味は痩せているのだろうが、畳一枚分の面積もなくて、鍬を使うのだってさだめし不自由だろう、と思われるような狭い畑にも、律儀にさつまいもの五本くらいは植えているのである。
 地球的な規模で干ばつが来れば別だが、中国が飢えることはないだろう、という気がした。これだけ勤勉で、自分が受け取れる利益を上げることには熱心な人々なのだから、私有の畑があれば、信じられないほどの情熱で農耕をするに決まっている。都市人口が増え過ぎれば、生産しないで食べるだけの人が、食料の自給率を引き下げることもあるかもしれないが、そういう場合には、中国はお得意の上意下達で、人々を農村に返すだろう。だから中国が将来食料難になるなどということを心配するのは、中国を知らないからだという感じがする。
 今度の旅行中、私が度々犯した間違いは、中国人に対してどうしても、
「お子さんはおいくたりですか?」
 と聞いてしまうことだった。すると相手は、
「女の子で九歳です」
 というような答え方をする。子供は一人に決まっているのだ。だからその子供たちを甘やかす。子供は祖父母の時代の貧しさなどてんで理解しない。
 神農渓には、むくげと黄色い彼岸花と額紫陽花がきれいだった。この川筋は、漢方薬になる植物の宝庫でもあるという。しかしこの渓谷でも、三峡ダム完成後は水位が七、八十メートルは上がるというから、両岸の岩も植物もほとんどは水没することになる。
 私たちは宜昌で船を下りた。温かいおもてなしに心から感謝して中国側の友人たちと別れた。それから最近できたばかりの高速道路を、再びパトカーの先導で二時間半ほど武漢まで走った。
 ほとんど前方に車の影も見えず、ガソリン・スタンドもドライブインもないハイウェイだから、安心で気持ちがいい。
 しかし武漢の町に入って、私たちは再びびっくりしてしまった。武漢では、パトカーの威力は全くないのである。パトカーの前を人と車が悠々と横切る。天秤棒のおじさんは荷物が重くて走れないからだし、リンタクもそうそう小回りはきかない。バスに至ってはパトカーを急停車させるほど、その直前に突っ込んで来る。
 中国は決して一枚岩ではない証拠である。武漢は文革の時、武闘をしたことで有名な所だった。交通の要所だから、先進的で気が荒いのだという人もいる。
 やっと武漢のホテルに入って食堂に行くと、前に結婚式をやっていた席を、大急ぎで取り片づけて席を作ってくれた。まずピールを頼むと、ジョッキに注いだぬるいピールが運ばれて来た。一口飲んで誰もが、おかしいと感じた。水を割ったのか、気が抜けている。前のパーティーの客が飲み残した壜の中身を集めて出した感じだった。
 紹興酒もおかしかった。壜が濡れていて、ラペルがすぐ剥がれる。無理して張りつけて来た感じで、中の酒も全く味が違うほど水っぽい。
 薄気味悪いので飲み残して、改めて缶ピールを頼んだ。しかし料理は実においしい。いかがわしいところと、きっちりしているところが斑に残っている点が、中国のスケールの大きさを残しているのだろう。
(九六・九・六)
 



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