|
一九九七年六月二十六日 ミラノに二日いて、昨日パリに入った。今年は日本年で、フランスではさまざまな催しが行われるが、日本財団では、ポンピドー・センターで三日間行われる梅若流のお能に協力することになっている。 ポンピドー・センターは空調だか配電線だかの巨大な束も剥き出しになっている醜いメタリックな建物。よくこういうデザインをパリの人たちは許したものだと思う。 屋根のない広場でやるのだから、天気だけが心配。日本にいる時から私は心なく「雨が降ったらどうなるんです?」などと聞いて皆にシブイ顔をされていた。誰も答えようがないのだ。 私は晴れ女だということを売りものにしていたのだが、朝からかなりの降りになったり又やんだり。気がもめることだ。ところが夕方六時頃、笹川日仏財団のパリ・オフィスに行った頃には、まだ着物の裾が濡れるのが気になるくらいだったのだが、オマール蝦とサラダの軽い夕食を食べているうちに、すばらしい陽ざしがさして来た。まさに幸運というより奇跡に近い。 今日は「土蜘蛛」と「蝸牛」それに「景清」である。日本で聞いたところでは、すべて本式の舞台を使うということだったが、背景はただのセピア色。第一パリのこの季節は、開演の夜九時になってもまだ明るい。パリの警察だか消防署だかは本火を使わせない、ということで、本ものの薪能も不可能になった。代わりに最近はやりの電気篝火が二カ所形ばかり燃えている。しかしそこにみごとな土蜘蛛の糸がかかるのだから、電気篝火でよかった、などと下らない安心をする。 今回は梅若六郎、恭行、宝生閑などの方々が来ておられるのだから、舞台は張りつめたみごとなもので、居眠りをしている人も、途中で立つ人も一人もいない。寒さも(私には)耐え難いほどになったのだが。 私は終わってほどほどのところで手を叩きたくなったが、通の西澤理事に止められる。余韻を残すのが、礼儀だとのこと。会場で会ったヨーロッパ暮らしの長い日本人も「ブラボー!」と叫ぴたくなった由。 終わってからセンター内でリセプション。生まれて初めてフランス語での挨拶。皆、はらはらして聞いて下さる。 六月二十七日 パリ公演の二日目。 いやらしい雨。今日の驚きは、入り口で手渡した粗末な使い捨ての黒いポンチョを着た人たちが、七百人、ほとんど二人か三人の人を除いて一人も立たずに最後まで舞台を見たこと。芸術の迫力をまざまざと見せつけられた思い。 六月二十八日 財団側四人。それに産経新聞社の田中規雄氏。毎日新聞社の和賀井豊氏がマイアミから合流してペルーのリマに向かう。 大使館人質事件が解決した後、在京のペルー大使館にアリトミ大使をお訪ねし、人質救出のために犠牲になった三人のペルー人にさし上げる日本財団からのお香典をお手渡しした。その時アリトミ大使が、日本財団が、一九九三年から今までに約九億二千万円余りをかけて三十四校の小学校を建てて来たのを、六月中に是非見に来るように言われた。 この事業は私が財団に来る前から始められていたもので、笹川陽平理事長の功績である。しかし財団としては一九九六年度に建てた十五校の確認も手続き上必要だし、その上で残った十五校分、千二百五十万ドルを認可することになるのだから、誰かが見て来る必要はあるのである。 夜、リマのホテルに入ったのは十一時近く。とろりとしかけたところへ電話で、明日フジモリ大統領が朝八時半発のヘリで、財団が建てた二カ所の小学校をご案内下さるとのこと。 小学校建設は、奥地の貧しい村を選んでいる。今日行くのは、アンシュカ州チキアンという人口八千人くらいの村にあるギリエルモ・ブラカーレ・ラモス小学校。山あいの空地にヘリが下りると標高三千二百メートルの土地では息が切れる。ジャンパー姿の大統領は身軽に坂を上がって、慌てて迎えに来た車の運転手を追い払って、私を隣に乗せ、埃だらけの村の道を走り出す。 村では新しいきれいな学校がよく目立つ。どこへ行っても、「フジ!」「フジ!」の熱狂的な大合唱。車に乗りこむと必ず「直訴人」が車の窓枠を掴んで頼みごとを息もつかずに喋りまくる。古い学校を修理してくれ、植林のための水路を作ってくれ、の二つの要求である。しかし教育と植林の二つを意識するとはすばらしいことだ。 ヘリは更にオクロスに向かう。ここにも財団が建てた二つの小学校がある。ハンドルを持つ大統領は村人に道を聞く。「この道は通れるのかね」という具合だ。広場には一目大統領を見ようとする人が集まっている。老婆は興奮して歓迎の花ビラとお米を投げる。 どの村でも最後には大袋に入れた衣類を貧しい人々に渡す。私も手伝って、小さな子には小さなのを見つくろって渡す。足りなくなるとヘリの将校が大統領に言われて、私たち用に積んでいた飲み物の大壜とビスケットまで渡した。
|
|
|
|