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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 豚が活躍する町  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い   
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2001/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   十一月初旬、私はシンガボール経由で南インドのバンガロールに入った。旅の目的地はバンガロールから五百六十キロ北にあるビジャプールという古いムガール時代の城砦のある町である。しかし私たちの目的は、歴史を探ることなどではなかった。
 私が二十八年間働いて来た「海外邦人宣教者活動援助後援会」というNGOのことは、ここでも度々触れざるをえなかったが(言い訳をすれぱ、それに関係しておもしろいことが起きるので)その組織が、今回インドで学校を買うことになったのである。今、カンボジアでもどこでも、日本人が学校を作ることが大流行である。私が働いている日本財団でもカンボジア北東部の開発が遅れた土地に作っているし、私の知り合いの個人が学枝を建てた例もいくつかある。学校は本来その国が自ら作るようでなくては、未来に希望はないのだが、それを言っていたらさしあたり大きな教育的空白の期間ができるので、致し方ないだろう。そして私の体験では、いわゆる「箱もの」でも、学校だけは母親たちが必死で守るので、政権の交代があっても比較的安全に影響なく使われ続けるのである。
 海外邦人宣教者活動援助後援会はその名前が示す通り、海外で働く日本人の神父や修道女を支援するものだが、日本国憲法とは違うのだから、時々例外を設けて自由な発想で活動をしている。インドに関しては、日本人のイエズス会の神父を通して、私たちはインドのカルナタカ州のイエズス会の神父たちの状況を知り、その活動を助けるようになっていた。今回の旅もその仕事の経過を見ることにあった。
 カルナタカ州のバンガロールを基地とする神父たちは、ビジャプールで、スラムに住む子供たちの多くが、学校に行っていない現状を何とか改善しようとしていた。今度の場合、神父たちは支援の対象を明確に限っていた。インドで今も執拗に残っている階級制度の中で、最下層と言われている不可触民の子供たちだけに的を絞った学校を作るのが目的だったのである。
 私が会った多くの人々は有名な政治家でも「インドにはまだ階級制度が残っているんですか」などと聞くありさまである。法的にはもちろんないことになっている。しかしその差別は、むしろ年々ひどくなっている。
 初め神父たちはビジャプールの町の中心部に土地を買い、それから校舎を建てようとしていた。ビジャプールは歴史のある町ではあるが、空気と水の汚染を放置された工業都市でもあった。だからというべきか、そんな所にもかかわらずと言うべきか、町の中心の土地の値段は実に高いものだったので、私たちは神父に、もう少し郊外に学校の用地を買ったらいかがですか、と提案してみた。しかし町中のスラムに住む子供たちは郊外の学校には通えない。バス路線も多くあるわけではないし、第一食べるものにも事欠いている家庭では、バス代を払わなければならないというだけで、もう子供を学校になど通わせないだろう。つまり学校はどうしても歩いて通える町の中心部にある必要があるということであった。
 どうしてこの塵芥だらけの乱雑な町の中心部の土地の値段がそんなに高いかと言うと、企業の持主の「資本家」たちは決してこんな町には住まないのだ、という答えが返って来る。自分たちはゴアやムンバイ(ボンベイ)の爽やかな海辺の豪邸に住み、工場のあるビジャプールには「差配」を遣わすだけで、決してこういう不潔な町には来ないから、町の環境がどうであろうと全く意に介しないし、土地を売ろうという人もないのだ、ということだった。 
 ダーリットと呼ぱれる不可触民の子供たちだけを教育する学校を建てると言うと、事情を知らない日本人は、すぐに神父たちが差別をして、他の子供たちと分離した教育をしようとしている、と早とちりする。
 もっとも私が初めに心配したのは、逆の方向、つまり日本的な学校の推移であった。日本でイエズス会の神父たちがいい高校を作り、生徒の東大への合格率が高くなったりすると、たとえその学校が鹿児島にあっても、九州のあちこちから父兄が子供をそこに送るようになるのが普通だ。だから私たちは、インドの神父たちがせっかくダーリットの子供たちをターゲットにした学校を作っても、いつの間にか他の力ーストの子供たちに占領されて、貧しい家庭に育ったが故に学力にも劣る子が多いダーリットの子供たちが、結果的には追い出されることになりはしないかと恐れたのである。
 しかしこれは全く見当違いな心配であった。放っておいてもインドのヒンドゥたちの少しでも上級のカーストの人たちは、ダーリットの子供たちの行く学校へは決して自分の子供を通わせない、ということで、私たちはまた改めてインドの事情を認識しなければならなかった。
 日本でも他の多くの国でも、人によって差はあるものの、もし貧困の中に取り残された人たちがいたら、少しは助けようとする意思のある人たちがいるものだ。だから学校を建てるにしても、インド側でできれば五十一パーセントの資金を寄付で集め、足りないところを日本側が出すという形が望ましい。しかしインドでは、ダーリット支援の金は全く集まらないに等しいということも説明された。
 インドのヒンドゥの思想では、人は、ブラーフマナ(僧族)クシャトリア(武士)ヴァイシャ(商人・農民)シュードラ(職人・奴隷)の四つの階級に分かれており、その下に不可触民と呼ばれる最下層の人たちがいる、ということになっている。そしてなぜダーリットに生まれるかは前世からの業によるものなのだから、人間が窮状を救うものではない、という解釈である。しかしそれは表向きの理由で、実はそれを利用した支配者階級が、安い労働力を確保する目的を果たしているという解釈もまた普通なのである。
 土地の候補地が二転、三転した後で、私たちは結局神父たちの求めに応じて、約二千七百万円の予算で町のど真ん中にあるココ椰子の油を搾る工場を買うことにした。日本と違って、学校というものはつまり雨と日差しを防ぐことができる建物なら、一応それでいいのである。生徒の数と、校舎の面積やトイレの数の比率だの、気分が悪くなった時の衛生室だの、火災の時の避難用の脱出口の話など全く出ない。規則はあるのかもしれないが、それに該当しなければ学校と認めないとなったら、インドの多くの学校が閉鎖しなければならなくなるだろう。
 私たちは買うお金は用意したが、すべての手続きは複雑で遅かった。まだ正式の登記もできていない。商業用としてこの建物の移転登記をするならすぐできるのだが、それだと学校用として登記する場合より二百万円以上高く費用を払わなければならない。しかし学校用として使用目的を変更するには、最低半年くらい、登記に時間が掛かる覚悟が要る。
 この新しいビジャプールの学校は「ロヨラ・ヨミウリ・スクール」と名づけられていた。海外邦人宣教者活動援助後援会が読売新聞社から「海外協力賞」を受賞した時の賞金がここの資金に注ぎ込まれたので、そう命名されたのである。神父たちは売買契約を済ませ、とりあえず幼稚園二クラスと小学校一クラスの授業を発足させていた。三つの部屋だけが、何も手入れをしなくても使える状態だったからである。黒板があるだけのガランとした石の床の上に、子供たちがあぐらをかいて坐る、机も椅子もない教室である。しかしスラムに住む生徒たちは、せいぜいで十畳ほどの面積しかない暗い室のような家の中でもゴザを敷いて雑魚寝しているのだし、家の中に家具があるわけではないのだから、学校に椅子や机がなくても、特にかわいそうだということにはならないのである。
 スラムの生活は、日本人には想像できないものであった。私たちが訪ねたスラムの入り口には、巨大な鋭い刺の生えた灌木が立っていて、「気をつけてください」と私たちはまず注意された。刺は地面の上にもたくさん落ち、その上を裸足の子供たちが平気で歩いていたので、私は自分の足の裏のひ弱さを恥ずかしく思った。
 スラムの特徴はすべての家が小屋に過ぎず、それが雑然と建っていることだった。椰子の葉で葺いた屋根の家もある。もちろん各戸に水道などない。共同浴場は、屋根もない腰までの石を積んだ二畳ほどの囲いである。人間のし尿も混じった汚水があちこちに溜まり流れ、その間をこの町の主役である豚が歩いている。豚のことを神父たちは英語で「スカベンジャー」と言ったが、これは「腐肉などを食う清掃動物」と辞書には書いてある。普通はハゲタカやジャッカルのことだが、ここではあらゆる塵を放し飼いの豚が食べてくれていた。豚はどぶの中にも肩まで入って餌を漁っていた。
 もしスラムのために働いている神父が同行していなかったら、私たちは異様な空気に直面せざるを得なかったであろう。ここはよそ者の入れるところではない。子供たちは人懐っこいが、大人たちの中には不快そうな視線を投げる者もいる。一人の力車のドライバーは足の傷が膿んでいた。犬に咬まれたのだという。インドでは野犬は放置されていて狂犬病に対する予防処置は全くされていない。犬に咬まれた人は、すぐさま予防注射をしなければならない。発症した狂犬病の患者は百パーセント死亡するからだ。咬まれた後の予防には一万六千円ほどの注射代がかかるのに、その人は六千円ほどを払っただけだというから、足りない処置の分だけは運任せである。一家がどうやら食べて行けるか行けないかの境目は、日本円で一万円だというのだから、この力車ドライバーは、働けなくなった上、生活費の半月分以上の金を、この不運のために支払わなければならなかった。
 このダーリットにも、実は上級ダーリットと下級ダーリットがいるのだ、という話はそのスラムを歩いていた時に教えられたのであった。力車のドライバーは上級なのだが、道路などを掃いている掃除人は下級ダーリットとみなされていた。それは外部の人間がそう決めるのではなく、彼らダーリット自身が設定した差別であった。
 どうして上級か下級が決まるのですか?と私は尋ねた。たとえばエボラ出血熱のような強烈な感染力を持った病気を扱う医療関係者を、非科学的な一般人が恐れる、というようなことならあるかもしれない。しかしダーリット自体差別を受ける理由もないことに苦しんでいるはずなのに、ダーリット自体が再び自己の組織の中で差別を構成するということが、私たち日本人には理解できないからであった。差別の一つの決め手は、かがんでする仕事で働く人は、下級ダーリットと見なされるということであった。背をかがめて掃く仕事はだからそれに該当する。とすれば、電気掃除機を使う掃除であれ、昔の箒で掃くことであれ、草取りや畑仕事をする私のようなガーデニング愛好者であれ、すべて下級ダーリットに該当するのである。
 ダーリットは、自分たちが受けた屈辱を忘れて、というべきか、受けた屈辱の報復をするため、というべきか、再び自分たちが少しでも優越感を味わうために、同じ階層の中にさらに階級を作り、従事する仕事も差別した。もっと複雑なのは、下級ダーリットさえインド社会では最下層ではないということだ。ダーリットといえども、都会のヒンドゥ社会ではれっきとしたメンバーである。しかし田舎のヒンドゥ以外の部族の人たちは、東欧ではジプシーという名で知られるランバーニ、アフリカからゴアに連れて来られた奴隷たちの子孫で黒い肌と縮れ毛を持つシディ、牛飼いのガウリ、森の人と言われ今でも森の奥に隠れ住み人を見ると逃げるゴーラ、などで、彼らはあらゆるヒンドゥから見下げられていた。私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が最初に小学校建設の資金を出したのは、こういう部族の子供たちを対象にした学校であった。
 バンガロールに戻って次の日、私たちは今度は車で小一時間ほどの所にあるアネカルという村へ行った。そこでもイエズス会の神父たちが、ダーリットの子供たちを対象に寄宿学校を始めていた。そしてその午後、学校の敷地の中の広い疎林には約五百人に近い婦人たちが、正装して集まっていた。近隣の二十五の村からやって来た、すべてダーリットの婦人たちである。五百人が集まるには「会場の手配が要る」などと考えることはなかった。できれば木陰で、大地に腰を下ろす場所さえあれば、ただちに集会は可能なのである。
 彼女たちは、恐らく神父から、私たち日本人がビジャプールに学校を買ってくれたことを聞いていただろう。しかし他人の幸福のために喜ぶ、ということのできる人はごく少ない。教育を受けていない人々は、架空の想定や、自分と直接関係ないことのために、喜ぶことも悲しむこともほとんどできないものなのである。だから彼らが集まったのは、退屈な村の暮らしの中で一つの変化が味わえ、晴れ着を着る場所ができたからだ。そして精々で日本人たちは多分将来ビジャプールだけでなく、アネカルにもお金を出して、何かいいものを作ってくれるだろう、という漠然とした期待を持ったからだろう。
 彼らの高度に練習を積んだ棒踊りや、村の手風琴の演奏などの後に、突然一団の変わった女性の踊り手たちが現れた。彼女らの姿が見えた時、五百人を越えるダーリットの婦人たちの間に一種のざわめきが起きたが、それは決して尊敬や愛情や喜びの期待をこめたものとは、私たちの同行者の誰もが感じなかった。新しい踊り手は、金きらに着飾ったランバーニ(ジプシー)の婦人たちだった。そしてざわめきは、ランバーニなんかが来て踊るのか、という驚きだと解釈した人もいた。
 彼女たちの踊りは、フラメンコとは似ても似つかないものであった。それは徹底して腰を曲げ、ほとんど土を耕す動作の繰り返しだけであった。もちろんランバーニは田舎の部族で、ヒンドゥのダーリットではない。しかしダーリットが自ら、上の階級と下の階級とに分類した方法でいえば、彼女たちは下の階級の特徴を示す仕草だけで踊り続けたことになる。
 人の波が去ってから、まだランバーニの婦人たちが残っていたので、私はそこで彼女らに加わって踊った。どうしてそういうことをしたかと言うと……私はこれでも水木流の踊りの名取り(ただし戦争中に乱発された粗製乱造名取り)で、世界中の盆踊りくらいならたちどころに加わって踊る破廉恥な神経を持っていたからである。
 



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