|
四月七日 朝、八時自宅出発、成田へ向かう。今日から視覚・運動機能に障害のある方たちを含めた六十二人で、十五日間、イタリアとイスラエルヘ行く。一応、カトリックの司祭の引率するグループなのだが、今回は半数以上がキリスト教徒ではない。 旅行社から与えられた名簿によると車椅子は四台。九十六歳と七十九歳の女性お二人は、恵の丘長崎原爆ホームから。筋萎縮症の中年女性。緑内障で視力のよくない八十歳の方は、少し前までハンセン病患者さんの付き添いとして来て下さった。他にまだ若いけれど、全盲二人、極端な視野狭窄一人、脳溢血後の視力と歩行に障害のある女性が一人、胃切除手術後の男性が一人。 他に私のような程度の人たちがかなりいる。わずかな手伝いはできるけれど、力仕事は少し無理、という中高年である。私も去年までは車椅子を手伝えた。しかし昨年の旅行直後に足にひどい骨折をしてから、やはり重いものがまた一段と持てなくなった。 この障害者の旅行を始めたのは十四年前。一年に一回ずつ出て、何となく十四年になった。ずっと続けよう、などと思わなかったから続いたのかも知れない。私たち仲間うちでは、「聖地巡礼」と呼んで、実際に聖書の土地を歩きながら専門家の講義を聴くのだが、信仰を強制することはない。ただキリスト教を知ることは「マタイ受難曲」や「天地創造」の絵を理解するためだけにでも必要なはずだ。 旅費は世話される側もお世話する方も同額。それがうまく行っている秘訣である。年齢制限もない。今年は九十六歳の宇田チヨさんを撮りにテレビ長崎の取材班が同行している。 今までにだって、医学的にかなりの危険を抱えて来た人は何人もいた。「死んでもいいから来たい」という人の希望を、私たちは尊重したのである。途中で倒れても、別に悪い一生ではないだろう。 それにしても十四時間あまり、エコノミー・クラスでの長い旅が無事でよかった。 四月九日 毎週水曜日のヴァチカンは、教皇謁見の日である。広場に溢れた数千の群衆には若い人々もたくさんいる。 教皇庁は、病人と新婚さんに対しては、いつも特別に教皇に近い席を割り当てる。だから車椅子の席は、ほとんど外国の大使と同格の場所である、その上今年は、偶然、白柳枢機卿とお会いしたので、私たちボランティアの席は少し遠かったのだが、謁見が終わってお帰りになる教皇と間近でお会いできるように配慮して下さった。皆、幸運を喜んでいる。 私は教皇の著書、『希望の扉を開く』の訳者の一人なのでそのように紹介されると、何語からか、イタリア語からか、ポーランド語からか、とお聞きになった。「いいえ、英語からです。でもイタリア語に堪能な石川康輔神父さまが、イタリア語版もよく参考にして徹底的に直して下さいました」とお答えする。 夜、教皇庁立グレゴリアン大学に、ヨゼフ・ピタウ学長をお訪ねする。グレゴリアン大学は、その学生の過半数が大学院生以上で、神父になるための人たちだけがいるのではない。仏教徒やイスラム教の研究者もいるし、女性教授や女子学生もいるという。教会史の研究者にとっても、ここは知識の宝庫である。ここにしかない貴重な文献が数万冊も保存されている。 入学は比較的容易だが、卒業はなかなかむずかしいという。たとえば聖書学一つでも、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラマイ語、の他に、聖書学には欠かせないドイツ語に始まって、イタリア語、フランス語、英語、スペイン語が要求される。だから性格はよくても、学問に向いていない学生は、自然に他の道を選ぶことになる。 大学は学生に深い労りの心は持っているが、甘やかしてはいない。学生の中には生活費がなくて、駅で寝泊まりしている人もいる、という。それでも本当にしたい学問ならするのだ。こういう厳しさは日本の学生には見られない。 四月十一日 昨日、エルサレムに着いた時は寒くてふるえた。数日前にはみぞれも降ったという異常気候である。 午後、狭いアラブ人の町を抜けて、イエスが十字架を担いで歩いたという道を祈りながら歩く。去年参加した時はおんぶされてバスに乗り降りしていた筋萎縮症の女性が、今年はどうしても脇を支えられながらでも歩いてみるというので、三台に減った車椅子を、数十段の石段を担ぎ上げる。この作業は毎年楽ではないが、この手応えがボランティアに来た醍醐味である。 道の両側の店のアラブ人たちは、くだらない道行きなんかせずに、何か買ってくれればいいのに、という目つきだ。 夜、思いがけなく皆さんに吉川英治文化賞の受賞祝いをされる。二十五年間続いた海外邦人宣教者活動援助後援会が賞を受けて、今日東京では授賞式が行われた筈だ。賞金に頂く百万円で、途上国に赤ちゃん用のミルク千キロ(一トン)を買って送れる。 宇田チヨさんが、お祝いに「ウメボシの歌」を歌って下さった。
|
|
|
|