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私はおしゃべりの癖に、筋を通して喋ることは苦手である。喋れば必ず不正確になる。だから気楽な話題以外はあまり談話に応じないことにした。何しろ私は書くことが専門で、喋ることは素人なのである。 もっとも書くことだって時々間違うことがあるのだが、何しろ原稿は読み返すことができるし、推敲ができる。それがありがたい。 時々、新聞記者が他の人に質問しているのを傍で聞かせてもらうこともあるが、これがなかなかおもしろい。新聞にせよ、雑誌にせよ、記者と名のつく人には、大きく分けて二種類の性格がある。鋭い質問を情け容赦なく浴びせて、それが記者の才気の表れだと思っているらしい人と、礼儀深く心が開かれている人と、である。後者はあまり質問をしない。しかし人間的な会話の中で自然と聞きたいことを相手に喋らせてしまう。 鋭い質問を浴びせかけるタイプの記者は、一見切れ者に見えるが、実は本当の談話は取れない、ということがこのごろようやくわかって来た。会話というのは、どんな人との間でも、普通は友情と誠実と尊敬の上になり立つ。もちろんそれ以外の心理で行われる会話もあるだろうが、それは人間の会話ではなく、「質疑応答」或いは「交渉」になってしまうのである。 聞いて答えさせるなどというのは、取材方法として最も稚拙なものだろう。一番すばらしいのは、聞かなくても相手に喋らせてしまうことだ。それには、質問する側、つまり記者たちの全人格がかかっている。この人になら、打ち明けたいと相手に思わせるような人格だ。そうでなければ、特に政治家とか実業家とかいう人は、辻褄を合わせたりケムに巻いたりして、決して本心を打ち明けたりはしないだろう。 人生は、技術ではない。人生には誠実が要る。ただ誠実というのは、自分はいいことをしている、嘘をついてはいない、などという単純な自信に満ちることではない。誠実とは「もののあはれ」を知っていることだ。と言っても、今の若い人にはわかるかどうかわからないが、別の言い方をすれぱ、共にこの世には哀しさがあると感じていることだ。この共感がある時初めて「シンパシイ(同情、共感)」が生まれる。 「シンパシイ」はギリシャ語の「シュンパセイア」という言葉から来ているという。「パセイア」は「パトス(堕落した情欲)」から出ているが、「シュン」という言葉は、ギリシャ語の中でも私の好きな接頭語である。 それは「共に」という意味である。相手と同じ立場に立って同じ感情を持つことが「シュンパセイア」なのである。 もし人間の心に高慢さや、高度の自信や、相手を見下した思いがあったら、決して「シュンパセイア」を持つことはできない。同じ思いを持てる時、多分人は相手を信頼して心を開く。考えてみれば当たり前のことだ。
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