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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ラクダは楽だ、ではない  
コラム名: 私日記 第7回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  四月二十二日
 朝、オーストリア航空でウィーンに出発。ザルツブルクの春の音楽祭に出席するためである。
 日本財団がザルツブルク音楽祭を支援するようになった経緯は次のようなものである。私が四年半前、日本財団で働くようになった時、財団は既に音楽祭の支援をしていた。それからまもなく、日本からもう一社日本財団といっしょにスポンサーになっていた或る大手ゼネコンの会社が、自分のところ一社だけで支援をしたい、と言っていると伝えられた。つまり日本財団はどいてください、ということだったのである。
 「どういたしますか」と職員は、私のところへ来て言った。「その通りにしたらいいんじゃないんですか? お金を出したいというところには全部お任せして、うちは出す人がなくて困っている、というところだけにお出しするのが原則でしょう」と、私はあっさり引くことにしたのである。
 しかし三年も経たないうちに、その会社はもう支援できない、と断ってきた。音楽祭の実行委員会は困って、再び日本財団にスポンサーになってくれませんか? と頼んできたというのだ。「またやりますか?」という現場の言葉には、いささか大手ゼネコンに対して「身勝手な」という響きもあるやに聞こえたが、私はもう一度原則を思い出して、お引き受けすることにした。
 春の音楽祭は、ヨーロッパの人にとっては、伝統的に春を実感する幸福な催しだという。それでもやはりお金はないのだ。スポンサーになるとすれば、誰かが見てくるべきだし、私はそのまま、障害者と毎年恒例になっている「聖地巡礼の旅」に参加することになっている。旅費の倹約になる、といういじましい計算もあった。
 夕方ウィーン着。乗り継ぎの時間がそんなにないので、きっと荷物を積み替えられないと思い、手荷物にこの二日間、ザルツブルク音楽祭で着る「民俗服」(着物)を詰めてきた。ウィーンの空港は小さくてのんきだし、ザルツブルクまでの飛行機はプロペラ機で、そんな用心はいらなかったような気もする。
 六時になるのを待ち兼ねて、ホテルの食堂で川を見ながら軽い食事。給仕のおじさんに「こんなに早く食堂に来てごめんなさいね。私たちにとっては真夜中ちょっと過ぎで、眠いの」と説明した。
 
四月二十三日
 復活祭。聖パウロ教会へ九時のミサに行く。ドイツ語と、ところどころ子供の時によく聞いていた懐かしいラテン語のグレゴリア・ミサ曲が混じっている。
 午前十一時から、祝祭大劇場でグスタフ・マーラー青年交響楽団(ベルリン・フィルの若手の交響楽団)の演奏で、べートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルト作品61とリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』を小澤征爾さんの指揮で聞いた。ヴァイオリンはアンネ・ゾフィー・ムッターである。若い管弦楽団員たちは、小澤さんのような大指揮者に指揮してもらえる感動をよく伝えている。いささか事務的な義務感で、プログラムの後の方に日本財団がスポンサーになっていることを知らせる頁がどうなっているか見る。もう一つの後援団体は、スイスのヴォントベル・ホールディング社である。
 二時近くから、「ベッフェルシフ」という田舎家風の郊外のレストランの庭で、カラヤン未亡人と亡きカラヤン氏に目元がそっくりなお嬢さんと、クラウディオ・アバド氏、ザルツブルク復活祭フェスティバル事務局長、デウィット夫妻などと昼食。
 アバド氏はイタリア人でも静かでやや無口な方。母上がシシリーの聖心の同窓生だとわかった。
 カラヤン夫人は、黒のTシャツにすばらしいエメラルドとダイヤのイヤリングをつけて、明るく陽気で「ソニーの盛田夫人はお元気かしら」と気にしておられた。盛田氏はすてきな男性だったという。「来年、奥様をお誘いしましょう」と約束した。
 食事が終わると、もう三時半。夜は時差に勝てず眠くなって早く寝てしまった。
 
四月二十四日
 復活祭の次の月曜日は町中の店がすべて休み。それでも観光客は湧くが如くである。こういう好機に店を開けないのだから、不景気などと言うな、という感じである。昼過ぎ、少し雲が出ていたが、郊外の湖の傍のフッシェル城で昼食。フワフワにふくらんだザルツブルガー・ノッケルというお菓子を久しぶりで食べた。
 夜六時。再び祝祭大劇場でアバド氏指揮のヴェルディのオペラ、『シモン・ポッカネグラ』。アバド氏の指揮台には譜などない。ヴェルディの曲は魅力的だが、作家として見ると、このオペラもなんとばかばかしい筋の作り方であることか。その点、戦後のミュージカルの名作は、ほとんどが骨太の筋を持っていることに気付く。
 終わってから劇場の近くの「ゴルドナー・ヒルシュ」で食事。このレストランは有名なのだそうだが、塩辛くてまことにまずい。ピザを食べて安く上げればよかったかと内心で思うが、ここの席を取るのは大変だとのこと。なんでもこの世で今回一度限りの貴重な体験と思って深く感謝をする。
 
四月二十五日
 朝七時発の飛行機で再びウィーンヘ。乗り換えてローマヘ。既に着いているはずの第十七回「障害者との聖地巡礼の旅」の一行をホテル・チチェローネで待つ。今日は四大バジリカを訪問中だと思う。
 夕方懐かしい顔をロビーにたくさん見つける。二度、三度と来てくださる方が多いからだ。車椅子は今年は四台だが、そのうちのSさんは、脳血管障害の後遺症で一番気掛かりだったが、元気そう。聡明な方で全部わかっておられるのに失語症があるので、義理の妹さんがついて来られた。早速、Sさんの部屋の様子を見てお風呂に入れる算段を考える。日本財団からの男手四人に、浴槽に入れてもらい、後は財団の秘書課長の星野妙子さんと、うちの秘書の堀川省子さんとが、賑やかにお喋りしながら背中や髪を洗う。私はその間に小物の洗濯の楽仕事。
 お風呂は、趣味ではなく治療だと思っているから、力のある人たちに働いてもらってほんとうにありがたい。
 
四月二十六日
 朝、教皇謁見の水曜日。ヴァチカン前のバスを降りた所で、元上智大学学長のピタオ大司教が私たちのために来ていてくださった。大司教のお計らいで、これで障害者の方たちだけは直接教皇さまに祝福を頂ける席に着くことができる。
 モンティローリ・富代さんと私は、ヴァチカンの前で皆と別れて、旅の最後の日に遊ぶための小物を買いに行く。シスターや神父たちが、安いヴァチカン土産を買いに行く店がすぐ近くにある。富代さんは陽気な話し方で、もともとかなり安い品物をさらに負けさせる。おやじさんも富代さんの魅力に負けて、それでは神父かシスター並みの値段にしてやろう、と言ってくれる。イタリア人は、人生の目的を、ではなく、過程を楽しむ才能を持っている人たちだ。
 買い物を終わってヴァチカン広場に行ってもまだ謁見に間に合った。しかし意地悪なボランティアが妨げたので、入場券を持っていても皆のいる前の方の席には入れなかった。
 それならそれで、後ろの方でのんきに日向ぼっこをしながら教皇をお待ちすることにした。少し風邪気味で微熱があるらしく、うとうとする。教皇は「子供、病人、苦しんでいる人たちに、特別の祝福を与えます」と言われた。謁見が終わって私たちの仲間の車椅子や盲目の人たちが、特別に教皇に握手して頂きに行く場面は、テレビの画面が映してくれたので、立ち上がって見てしまった。
 そのままバスに乗って、アッシジに向かう。途中のドライヴ・インで食事。夕刻、聖フランシスコ大聖堂が城塞のように屹立するアッシジの町に入った。
 スパシオ・ホテルのテラスで、夕食の時、すばらしい夕焼けと、輝き始めた村の燈火を眼下に見た。あまりにもみずみずしいウムブリア地方の夕景である。しかしそれを説明する私は心に負債を感じている。この光景を見える人と、見えない人とがいるということは、あまりにも苛酷な不平等だ。
 
四月二十七日
 このスパシオ・ホテルの部屋番号の付け方は何というでたらめだろう。私は昨日から三度も自分の部屋に帰れない。その度に、誰かが見ていてちょっと笑われている。階段を下りるところを上ったりしてしまう。
 午前中、聖フランシスコの墓前のチャペルでミサ。その後大聖堂の内部を見る。地震で壊れたところも復旧している。
 咳がひどくなっているが、朱門と三十分ほど町を歩いて、人形やお皿などくだらない買い物をした。帰って窓を開けて、田舎の気持ちのいい空気を部屋の中いっぱいに入れて、気管支の炎症がなおりますように、と念じた。抗生物質を飲み始めることにする。
 
四月二十八日
 朝、五時半。星を頂いてアッシジの城門を出る。夜空は瑞々しい青。力ない白い半月。
 ローマ空港からイスラエルのテルアビブヘ。ローマの空港は全く新しくなって、使い勝手がわからない。Mさんがスカーフを買うのを手伝う。私はイタリア風のサンドイッチを買いたい誘惑にかられたが、まずリラでお金を払ってそれから受け取りを持ってサンドイッチを取りに来いというので、めんどうくさくなって止めた。
 午後二時半、テルアビブ着。毎年バスを運転してくれるエドワードとメイルの二人は、もう一人の友達と三人でバス会社を設立して社長さんになっていた。この人たちの美徳は、いつもにこにこと楽しそうで家族にやさしいこと。そんなさりげないことがこの上なく偉大に思えて胸に応える年になった。
 
四月二十九日〜五月一日
 エルサレム周辺の見学。
 風邪があまりよくないので、まだらにツアーについて行く。鶏鳴教会のミサの後、車椅子のSさん、ビザンチン時代の遺跡を見るために、支えられてではあるが、二年ぶりに自分の足で立つ。皆拍手。
 朱門お勧めの風邪薬を、寝る前に二錠飲まされた。後で見たら一錠でよかった。夜中ずっと乾いて苦しくて唸り通しだったらしい(きっと私に十億円くらい生命保険を掛けてあるので風邪薬を倍も飲ましたに違いない、と朝言ったら、ひどく嬉しそうな顔をした)。
 エンカレムでは、マリアがエリザベートを訪問したという丘に教会が出来ているが、そこまで数百メートルを歩くのをさぼって、知人とカフェでエスプレッソを飲んで皆を待った。指導司祭の坂谷豊光神父が「ソノさんの咳は、結核の末期だ」とおどして休め休めと勧めてくださるので、怠け根性が喜んでいる。
 午後は今年初めてエルサレムの神殿の西の壁に沿って通っていた路地の発掘現場を見る。昔は当然地表だったのが、今は現在の地面が上にのっかってしまっているので、地下トンネルとして発見されたのである。
 イエス時代の人たちが触れたに違いない壁の感触を眼の見えない方たちにも味わってもらう。
 
五月二日
 エルサレムから南下して、砂漠の中のマムシートのベドウィン(放牧民)のキャンプに立ち寄る。ただこれは観光用のテントである。最近のベドウィンは、ますますここのような正統派の山羊の皮のテントなど使わないようになり(きっと重くて防水も完全とはいえず、扱いが面倒だからだろう)工業生産品のテントを使うようになった。皮のテントの時はキャンプは絵になったが、今はみじめなスラム風に見える。しかし私自身、軽薄な便利主義者だから、他人の悪口は言えない。
 ターメリックで黄色く色を付けたライスに羊の焼肉、サラダ、ホムスなどを添えた昼食を、テントの中の絨毯の上で食べる。その後、駱駝の試乗会。
 駱駝に一度でも乗ったことのある人は「楽だ(駱駝)、なんて嘘をつけ」と思っているから「結構ですわ、あんなもの」と乗らない。その分、大学生や中学生は二度乗せる。昔の人は、あんな辛いものによく一日乗り続けて旅をしたものだ。お尻の皮が剥けたか、お尻に鞍だこができたろう。
 夕方、死海の傍のホテルに着く。
 マサダ(ヘロデ大王の作った城塞)に行く組はすぐ出発。死海で泳ぐ組はそのまま残って湖に出て来る。泳ぐといったって、浮かぶだけだが。車椅子のSさんも湖を見たら、やはり浮遊体験をしたくなった。妹さんと私とがホテルの売店に水着を買いに行った。この国は有名な水着の生産国なのだから、これはいいお買い物。Sさんは頭をちょっと手で支えられているだけで、のんびり浮いている。
 夕食の時、マサダ組がやっと戻った。帰りのケーブルカーがなかったので、四十分皆歩いて下りたらしい。八十一歳のWさんもそのお一人だが、すたすただった由。三枝成彰さん作の『レクイエム』のリブレットを私が書いた時、その中に「青い天使」というすばらしい自作の詩(原文は英語)の使用を許可してくださったカトム・ユリコさんも、足が痛いのに歩かされた一人。カトムさんがどんなに大変だったか、という話をすると、三浦朱門はこの上なく嬉しそうに、「でも歩けたんでしょう?」と同情の色もない。
 そんな話をしているうちに、来年は満月の夜を予め計算して行って、マサダの頂上で野営する企画を思いついた。ヘロデもビールを飲んだ絶景のテラスで、月光を浴び満天の星を天蓋に眠ったら、また一瞬、これで死んでもいい、などと軽薄に思うに決まっている。
 
五月三日〜五日
 一日、バスでヨルダン渓谷を北上して、ガリラヤ湖まで来たが、風邪は少しもよくならない。
 帰りに、私だけロンドンヘ出て、司法制度審議会の見学に参加することになっていたが、これでは無理だろう、と次第に自他共に思うようになった。私はイギリスの弁護士やその事務所、裁判などをほんとうに見たくてたまらない。長年、本で読んできただけの世界を、ほんの少しでも垣間見られるのだし、イギリスなら、裁判を聞いても、半分くらいはわかるだろう。しかしどうもこの咳はしつこくてよくない。決心してロンドンの日本大使館に、お詫びの欠席届けをファックスで送る。皆と同じアリタリアの飛行機の切符は取れない。帰りの足をロンドン、コペンハーゲン、パリ経由などあらゆるルートで考える。
 今年も、聖書の中の「山上の垂訓」が行われたという場所で、同行の河辺敬子さんの洗礼式が行われた。ほんとうに恥ずかしいことなのだが、私が洗礼の代母になる。遠慮すべきだろうなあ、と毎回思うのだが、知識でも生き方でも娘が母を凌ぐ例は世間にたくさんあるのだから、「まあ、いいか」と思うことにする。この巡礼がきっかけで洗礼を受けた人は、三十七人に達した。
 キブツが経営している「ノフ・ゲノサレ・ゲスト・ハウス」にはブーゲンビリアの花も盛りで夢のように華やかだが、夕食の時、もう一台の車椅子のCさんの手首が、回転できるようになっていると、ご当人が話される。私にはそれがどれほど信じ難いことなのかわからないのだが、総じて楽しいと病気は治る、という原則があるようだ。当然のことだが、リハビリはつまり楽しくないのである。
 皆がピリポ・カイザリアにピクニックに行く日も私は休んだ。バスを見送りに玄関に出ると、土地の人が、「まさかスカッド・ミサイルが怖くてお止めになるんじゃないんでしょうね」と囁いた。すぐ『エルサレム・ポスト』と『ヘラルド・トリビューン』を売店で買って部屋に戻って読んでみると、ヒズボラが、北部の町にスカッド・ミサイルを撃ち込んで、マーケットで死者も出たのである。
 夕方帰って来た夫に、「スカッド・ミサイルからどれだけ離れてたの?」と聞くと「八キロ」と答えた。誰も動揺していなかったという。スカッド・ミサイルの精度はよくないと言われているが、それでも標的でない所は、日常生活を失ってはいないのだ。
 
五月七日
 朝四時、巡礼の本隊とテルアビブの空港に出発。どうしてもアリタリアの切符は取れなかったので、やはり一人だけロンドン経由になる。切符の再発行にたっぷり四十分。
 ロンドンでは、着地してから、扉が開くまでにも四十二分かかった。ここも成田に負けず劣らず能率の悪い空港だ。しかも第一ターミナルに着いたのだが、出発便は第四ターミナル。たっぷり二十分ほどは空港を歩いた。まだ咳が続いているし、胸の中に薄紙が張ったようなので、少し息が苦しい。
 出発の時も再び空港の廊下を十分は早足で移動した。今日は運動充分でよかった。
 
五月八日〜十日
 ほぼ時間通り、八日午前十一時五十分成田着。飛行機の中もずっとマスクをつけて用心していたので、日本の湿気のある空気に触れたら、気分はかなりいい。家で少しだけ荷物の片づけをして、すぐ横になる。ほっとして食欲がない。
 庭は花だらけ。こんなに見事な春をこれで十七年間もよく見たことがない。いつもこの時期に巡礼に出ているのだ。私が帰ると、留守中に散ってしまった花の話ばかり出る。
 
五月十一日
 ほんとうは今日午後帰る予定だったので、出られなかったはずの教育改革国民会議に出席した。留守中十七歳の犯罪が相次いだというので、国民会議として緊急アピールを出すかどうか、ということ。江崎玲於奈座長が用意された座長名で出すアピール分には、私をも含めて、今さら何でこんな気の抜けたものを、という印象を持った人が大半らしい。国民から叩かれない文章というと、こうなるのだろう。
 さんざんもめて、最後までこんなものを出されては困る、という人と、私のように、皆の意見を入れて文章はかなりなおされているので、座長のお名前なら出してはいけないという理由がないという考えと、いろいろ。総理官邸の玄関で、新聞記者が四人「アピールは出ますか?」と聞くので「お出しになるようですよ。さんざんもめましたけど」と答えた。すると「割れているんですね」と国民会議自体が内輪もめしている事実を掴んで嬉しいような口振り。「もめなかったらどうします? こういうことに全員意見が一致したら気味悪いでしょう。そんなのは、社会主義国家のやることです」と答えておいた。
 
五月十四日
 午後四時七分、小渕前総理、逝去の報道。
 



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