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五月十九日付けの毎日新聞夕刊に、佐賀県鹿島市の市立中学校で起きた小さな事件の話が出ていた。 一人の男性教諭が、ある日、休んだ担任の代わりに、給食指導に行った。すると先生の机の上には、パンと牛乳はおいてあったが、シチューなどの副食はなかった。
当番の生徒が「担任が休みだったから」と言い訳すると、「代わりの先生が来るだろう」と注意し、罰として給食の中止と廃棄を命じた。
毎日新聞の米田和俊記者は、冷静に私情を交えずいい記事を書いている。
「この後、この教諭は『世界には今夜食べることを心配している人が3分の1もいる。また、家庭ではだれから先にご飯をつぐだろうか』などと話したという。
校長は『年長者への礼儀などを理解させようと思うあまり、行き過ぎがあった』と話している」
今まで何か事件がある度に、テレビや新聞にまっとうで気骨のある発言をした校長を、私は一人も見たことがない。今度も社会の風潮に迎合して実につまらない反省を見せた。しかしもっと困るのは、東京のテレビ朝日の朝のニュースのコメンテーター群が、一人残らず、この先生のことを、自分の前にシチューが配られないだけで怒った大人気ない先生として、
「ちょっとどうかと思いますねえ」
という意味の発言と共に笑ったことである。
自分のところにシチューが配られないだけで怒った幼児的先生なら、後段のような話をすることはないだろう。
こんな些細な事件が新聞に載る背後には、子供の食事を一食抜かすのは、大変な悪だという社会の甘えがある。昔は礼儀知らずや気のきかない自分の娘・息子に対しては、各家庭の父親自らが、チャブダイをひっくり返して怒ったものだ。もちろん私はその手のしつけを全面的にいいとは言わないが、どうしてもわからなかったら、たまにそういう態度に出て、子供が身にしみて実感できるようにする先生がいても、少しも悪いことではない。
たまに一食くらい、子供に食事を与えないのは必要だ。昼飯は必ず出て来るもので、食べ損なうと大騒ぎをするという感覚の方が異常だ。この先生が始終同じ形の罰を乱発するようになったら問題だが、たまに一食抜かせて、世界的な貧困の辛さを体で理解させるのはいい教育だと、私は思う。
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