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昔からお金については、あまり心を使って来なかった。と言うと、「恵まれていらしたんでしょうね」と言われるので、後を続けることが少し億劫になることがある。事情は全く違って、私は伯父に大学の学費を出してもらい、父が再婚したので、父の死に当たって相続も放棄した。そのおかげで私は父の後妻さんとも、金銭的な争いをしたことがない。 お金のことに心を使わないということは、お金を軽視できた結果ではないのである。ただ、小説というものは、人生の足し算も引き算も「その通りにはならない」美や醜を書くので、一万円あるところへ一万円もらったら、二万円になる話だったら、小説にならない。一万円あるところへ一万円もらったら、三万円になったか、百円に減ってしまう話だというと、人は「どうして?」と理由を聞きたがる。小説の生まれる瞬間である。 お金でも女でも、嫌いよりは好きな方がいいに決まっている。昔、或る作家が文化勲章を与えられる、という報せを受けると真先に、「金はついてるのかな、金は」と名誉などそっちのけだった、という嘘か本当かわからない逸話がある。しかし隠し女と同じで、金と律儀に付き合っているとてきめんに小説は面白くなくなる。ながながと金勘定することともいけない。金儲けの方法も、小説に書くのに必要な場合以外は、考えない方がいい。 こんな風に思って暮らして来たのに、日本財団というところへ就職してから(もっとも、私の立場を就職と言っていいのだろうか。無給の就職というのは、本来はないものだろうから)私は今まで考えることもなかった分野を知ることになった。お金との関係、つまり財団の予算との関係である。それもまた桁違いに大きな額のお金との付き合い方である。 だいたい普通の生活者だったら、新聞の全国紙の一頁広告がいくらか、テレピの三十秒のスポット広告がいくらか、などということは一生知らなくて済んだはずである。新聞の一頁広告が数千万円もするなどというと聞くと、庶民は改めて「ほんとうかな。よくやっていけるな」と思うのが普通だろう。 なぜ一般の企業は、新聞にそんな高い広告費を払うのか。考えてみれば理屈はあるのだ。仮に或る全国紙の発行部数が五百万部で、広告掲載料が一頁全紙で四千万円とすると、その新聞一部を一人しか読まなくても、その広告料は八円にしかならない。もし夫だけでなく妻も読めば、購読者数は一部当たり倍になり、広告費は一人当たり半分の四円になるわけである。 八円にしかならない、か、八円もすると感じるかは、人それそれだと思うが、私は素人な上にけちだから、八円もかかるのか、という感じであった。 とにかく、一日で数千万のお金を広告に使う、ということが、どういうことか、私は考えてしまう。仮にタイヤを売っている或る会社が、一億円かけて広告をして売上が十億円増えれば、この広告戦術は大当たりということになるのはすぐわかるのである。しかしその場合この広告費を負担したのは、そのタイヤを買った人たちなのだから、私はこのごろ、大きな広告を出している会社は、それだけで商品が高くついているのだな、と考えるようになつた。 しかし日本財団の場合はどう考えたらいいのだろう。私たちの組織は、競艇の売上の三・三バーセントを受けて、それを、国家とは違うやり方と場所で、公益福祉のために使う。まず海事関係の研究・開発がある。国内では老人ホームを建て、ホスピスを増やし、車椅子用の昇降機のついた車をあちこちに配り、ボランティア活動支援の財源を支給する。芸術・文化に関しては、郷土芸能や舞台芸術の助成、スポーツ団体の運営の助成をする。国外の援助としては、奨学資金を出すことが一番大きな仕事だが、外国各地の日本人小学校にスクールバスを配ることも引き受ければ、外国の各国の大学に日本語の普及のための拠点を作ることも含まれる。 PRは企業イメージを作るためにするのだという。しかし日本財団の場合、広告をして売上を増やすのが目的だというわけではない。私流に言えば、企業イメージに当たる、財団のイメージなんか、ほんとうのところどう思われようとどうでもいいのである。イメージを改変するためのお金なんか出す必要はなくて、お金はひたすら仕事をするのに使うのが本道だろう。ただ何をしているかを、世間に知らせる義務は大切だから、そこで広告も必要なのである。 と言う度に、私より古くからこの財団にいる職員の顔には、当惑が浮かぶ。「新人(私のこと)は過去のことを何も知らないから」という感じの表情である。 「日本財団のイメージがどうでもいい、って!そんなことを言っていられましたか。長い間、マスコミは、日本財団を悪く書きさえすれば正義の味方だという態度を取り続けて来たんですよ。私たちがどんな扱いを受けて来たかおわかりですか」 と誰一人として言葉には言わないけれど、私より古手の人のほとんどは、皆、マスコミの手痛いイジメを受けた体験者ばかりだ。 確かにそうなのだ。法治国家である日本の検察庁は、数年前に、この財団から二百五十箱以上の参考資料を押収したという。しかし起訴することはしなかった。起訴できなかった、ということは、法的には無実だといわざるをえない。その財団を、確信を持って断罪したマスコミが多かったのである。 私は別のことでひがんでいる。 どうも長い間、日本財団は、お金のあるお坊っちゃまだと広告代理店から思われていたのではないか、という疑心暗鬼である。もうそんなことは一切やめだ。広報の費用は切り詰めて、総て仕事に使う。広報費は最低限出して、最高の効果を上げてもらう。お金をかけたいだけかけて効果を上げることなんか誰にでもできる。しかし少ないお金で最大の周知効果を上げるというのは、最も難しい「男の戦い」だ、と私は美人の女性職員も混じる広報課の人たちに言ったのである。 理由は単純である。こちらは、人さまのお金を使う立場だ。自分の金なら何にどれだけバカなことにお金を使っても遠慮することはない。女にやろうが、骨董を買おうが、好きなことをすればいい。しかし人のお金は百円でもゆるがせにできない。爪に火を灯すようにして、冗費は徹底して省く。企業イメージなんか、悪く思う人にはずっと思わせておいたらいい。しかし人の口に戸は立てられない、というから、一生懸命に仕事をしていれば、次第に変わるだろう。仕事の中身の実態こそ、広報の最大の戦力だ。最近知ったことだが、日本財団がひどい悪評を受け続けた最中でも、まともに取材して書いていてくれた新聞記者も雑誌の編集者も何人かはいたのである。「人間というものは、人が言うほど悪くもなく、人が褒めるほどよくもない」ことを、その人たちは過不足なく知ってくれていた賢い人たちだったのだろう。 企業イメージを作るためのPR雑誌を、私はまずやめてしまった。私は世間のPR雑誌というものが、以前からむだだと思っていたのである。第一の理由は「人はただでもらったものはほとんど読まない」からだ。(その心理は教科書でも同じだ。だから私は教科書を有償にすべきだと考えている。)第二の理由はPR雑誌というものは実に単価が高いからである。 我が財団にも立派な広報誌があった。 「この手の雑誌は誰に送るのですか?」 と聞くと、関係団体とオピニオン・リーダーなどに送るという。「それじゃ普通の人は読めないわけじゃありませんか。オピニオン・リーダーたちだけが雑誌をただで送ってもらうなんて、そんな不公平はやめましょう。誰でも、どこでも、どこかで読める、ということを考えなければだめです」というのが私の論理だ。ことに、ただで雑誌をもらうオピニオン・リーダーのような人たちのところへは、この手の雑誌が山のように送られて来るから、受け取り人は封を切っただけで中身を全く読みもせず、紙屑籠へ捨てる可能性の方が高い。 しかしこういう理屈は世間ではあまり通用しない。だからどこの会社でも、高いお金をかけて、高級なイメージを出すために、むだな広報誌を出している。 私はいつも一つの情景を思い描いていた。町中の蕎麦屋と食堂の光景である。 一人で食事をしに来ている人も多い。侘びしい食事だ。話相手もいない。だから店先においてある雑誌を読む。雑誌は読みこまれて。ページがくたくたになっている。それほど一部当りたくさんの人が読んでくれたという光栄を、その手垢まみれの雑誌は示している。 蕎麦屋と食堂、床屋と美容院、町の内科医と歯科医の待合室にある範囲の雑誌に、私は日本財団が何をしているかという広告を出すことにしてもらった。 カラーはぜいたくだから、一切やめである。うちはメーカーでも商社でもないのだから、質素でけっこう。質素こそうちの企業イメージだ。少し素人の勉強をしてみると、カラー一ページ分のお金で、縦三分の一ページの活版の広告が、一月一度ずつ、一年間買えることがわかった。それを財団職員のアンケートで、一番多く読んでいる雑誌の上位から五十六誌に一月一度ずつ買う。「文芸春秋」本誌などは、日本財団を八カ月にわたって不正確な記事の連載で叩いた張本人だそうだが、そういうところにこそ、広告を載せる。既に悪意を培われた読者がいる、ということこそ、効果の期待できる黒い肥料入りの土壌だからである。しかしやたらと広告料の高い雑誌は、部数が多いのだろうが、質素であるべきこちらの立場に合わないから、自動的にやめる。それだけで、PR誌よりはるかに安く広報活動ができるのである。 十ニカ月の間、毎月の広告が一種のレポートなのだから、コピーの文章を毎月変える、というと、変更の度にまたウン十万円の単位位の制作費がかかる、という。「どうしてそんなにかかるのですか」というと広告代理店の人が「取材して書くから」だという、作家の中で、今はどなたの原稿料が一番高いのか知らないが、亡き川端先生にお願いしたって、普通原稿用紙一枚十万円はしまい。「それなら財団の広報課で書かせましょう。取材しなくても知っている人たちばかりです」、ということにした。広報課はうんざりしたかもしれないが、私は彼らの文才を信じている。材料さえ各課からもらえば、私だって三分で書ける。後は活字を入れかえるだけだから数千円で済む。 取材や勉強を他人の費用でしないでください、と言いたくなる場合もあった。盲人に付き添うボランティアの歩く位置について、制作者自身が全く知識を持っていないのである。私自身が英語がそんなにできないので言えた立場ではないのだが、たった一言の英文のコピーがどうもおかしかった場合もある。人の金で勉強をしてはいけない。会社がもっと社員教育を徹底して、備えるべきだろう。 或る広告代理店は、一回のミーティングに、自動車二台分の人員を送りこんで来たので、後で私は広報課に言った。 「今度から、おいでになる時は、せいぜいで三人でいらして、って言ってくださいな。あの自動車代をこっちが払うことになるかと思うとたまらないから」 これはつまり、けちというビョウキの症状なのである。それに一般に作家などというものは、いなくても済む人に仰々しくいられると、話をしても落ち着かない。政治家や社長さんは、自分が偉そうに扱ってもらうのが好きなのだろうが、作家という人種は、本来密室でヒソヒソやるのが好みなのである。 しかし、広告代理店と財団との関係は、決して悪くなっていない。どんな大手だって小手?だって、才能というものはピカリと光って私の注意を引きつける。何気ない字の配置、意表を衝いた思考の飛躍、思いがけない眼線の位置など、素人は真似できない。どの分野であれ、ほんとうの玄人の仕事には、私は改めて深い敬意とお金を払って当然だと思う。 予算が何百億の単位でも、私は自分の財布にある額のお金で、ものを考える癖を止めたら終わりだと思う、と女性弁護士の友達に言ったら、それを主婦感覚と言い、女性にはそれが残っているから、世間で金銭的問題を起こす率が男性より少ないのだという。 私の夫もけちで、百八十円の電車賃が惜しいばかりに自宅から渋谷まで約十キロを歩いてしまう。しかしほんとうのケチなら、ズボンの裾と靴の踵の減り分を計算に入れないのはおかしい、と周囲の人に言われている。 夫のケチも主婦感覚かと思ったら、 「ううん、僕のは天丼感覚」 と言う。昔から彼は、高額のお金の話を聞くと「天丼でなんばい分かな」と考える癖があった。山下清の「兵隊の位でどのくらいかな」というのと同じ発想である。 今、一千万円というと、一ぱい千円の天丼が青空に一万個、百個ずつ百列並んでいる姿が見える。それを全部食べることを想像すると「コラ、大変だ」と思うのだそうだ。しかし丼の列が見えているうちはまだいい。一億円だったら十万個、百億円だと……もうその辺で天丼の列は見えなくなっている。危険を知らせる予兆である。 (一九九六・三・四)
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