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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 生命と生涯の主人としての自分  
コラム名: 昼寝するお化け 第176回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1999/04/09  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   個人の自由の選択、個人の意志の尊厳、などという言葉をよく耳にするが、日本は有数にそれを守らない国ではないかと思う。
 私は毎年、眼が見えないとか、車椅子を使用しなければならないとかいう方たちと、聖書の勉強を兼ねてイスラエルなどの中近東の国々へ旅行し、今年で十六回目になるが、初めのうちは、その病状や年齢の制限をどうするか、という問題があった。
「自分でどうしても行きたい、死んでもいい、と言う方なら、かまわないんじゃありませんか?」
 と私は初めから割り切っていた。そういう話が出たのは、旅行社によっては、病歴のある人には医師の診断書を出させたり、年齢制限を設けたりしているところがあって、それが日本の常識だと思われている面があるからである。
 さらに、万が一参加者が病気になったり亡くなったりするような場合、旅行社の手落ちとして訴えられないか、という危惧があるから、みんながそれに対して防御しているからなのである。
 しかし私は初めからそんなふうには考えなかった。旅行というのは、普段の生活とは違ったことをすることである。というか普段通りの生活を初めから守れない、ということが前提になっている。
 それは生活のあらゆる面に及ぶ。食事も自分で持参すれば別としてあてがいぶち。清潔の度合いも保証しかねる。お風呂も毎日決まった時間に入れるとは限らない。暑さ寒さも、全く予期できないほどの急激な変化でやって来る。
 あらゆる国が日本より事務的ではないから、来ると思っていた観光バスが来なかったり、故障したり、飛行機会社がストをしたりすることはざらである。更に預けた荷物が紛失して出て来ないということもよくあるから、大切な薬は肌身離さず持って歩くくらいの疑いと知恵が必要になって来る。
 それらをも含めて体験することが旅なのだ。だからそれが嫌な人は、初めから日本の自分の家から出ないことなのだ。
 数年前、旅行直前に吐血だか下血だかして状態があまりよくないという方が、しかし死んでもいいから参加したいと言っておられるけれど、どうしましょう、と旅行社から相談を受けたことがあった。私は「ご当人が死んでもいいから行きたい、とおっしゃってるんなら、いいじゃありませんか」と迷いもしなかった。
 その方は自分が死んで小さな箱に入って帰ることもちらと考えられたらしい。小さな箱については九十六歳で参加された方も、箱のことを考えられたという。しかしお二人とも、箱に入るどころか、大きな顔で、元気に帰られた。
 その人が自分で望んだのに、旅先で亡くなったのは企画をした人たちだとして遺族が訴えるなら、それはその時のことだ、と私は思う。しかし私たちの旅に参加するような人たちは、皆はっきりした好みのある人たちなのだ。ブランドもののハンドバックを買いにパリヘ行くより、灼けるようなイスラエルの荒野に立ってみたいと思う人なのだ。それは荒野が誰にでもまことに公平だからだ。赤ん坊でも高齢者でも、盲目の人でも車椅子の人でも、同じ激しい酷暑や砂嵐に巻き込んで決して労らない。
 ちゃんとした自分の意志で人生を歩いて来た人の好みなら、たとえ生命の危険があろうとも、その人が自ら選んだものとして叶えるのが当然だろう。こういう自己責任の気風を一切認めずに、何かあるとそれは主催者が悪いという風習を作ったから、日本人の精神は腐って来たのである。
 
脳死移植でもドナーの遺志が絶対優先
 私の知人のシスターがアフリカの或る国から帰って来た。昨年政変があって、私たちも日本財団から調査団を出す寸前になって、民間航空路も止まってしまい、ついに計画を断念したのである。大使館も引上げ、僅かにいた在留法人も大方は引上げたのだが、看護婦であったり、幼稚園の教師をしたりしていたシスターたちは全員残った。
 その時、日本の大使館だか外務省だかは、指令に従わない彼女たちに「御機嫌が悪かった」そうで(もっとも大使はいい方でした、とシスターは言っていた)「今度こういうことがあったら必ず出てください」というような警告もあったとか聞いているが、私に言わせれば余計なお世話である。
 誰も敢えて危険を冒す人はいない。しかし世界中で、危険を承知で自ら選んでこういう生活をしている人はたくさんいる。日本人にもいるし外国人にもいる。
 私がまだ会っていない一人のスペイン人の神父は、有名な外科医だった自分の生活も仕事も棄ててアフリカの最貧国の一つに赴任した。たくさんの結核患者のために設備の悪いレントゲンをかけ続けたので、彼自身が手の骨を冒されて癌になっている。私たちは、その人の要請に対して、結核の特効薬を送った。「夢の薬をありがとう」とすばらしい英語の手紙を受け取った。私はその神父が生きているうちにせめて一度会いたい、と今でも思い続けている。
 命を賭けても、人間にはしたいことがあって当然だ。しかし私のような卑怯者は、何とかずるく「御身ご大切」にしながらせめて命を賭けている人の手伝いを少しだけして、自分の気持ちをごまかせないものか、と考えるのである。
 脳死段階での臓器を提供します、という意志も当人のものが絶対優先の効力を持つように法的に整備するのが当然だ。もし遺族の気持ちが優先するなら、個人の意志とは、いったい何だったのだ。
 自分の好みとはそぐわなくても、愛する人の遺志なら、家族は全力をあげてそれを叶える、というのが道理ではないか。ましてや本家とか親類とかが出て来て、当人の意志を曲げるような指示をする理由は全くないのである。それは人権にも、日本国憲法の精神にも反するだろう。
 いつのまにか、私たちは自分の生涯や生命の主人である地位から追放された。自然に死にたいと思っても病院で管人間にされ、最後の日々をホスピスで過ごしたいと思っても、末期医療は儲かるという医療機関が病人を離さないので、患者はホスピスに入れなかったという話はよく聞く。もしそれが悪意のある風評や誤解なら、医療機関は全力をあげてそうした汚名を雪ぐために動くべきだろう。
 気球に乗って地球を一周した人も、そりを引いて南極や北極に行く人も、山に登る人たちも、皆自分の意志、責任、選択においてそのような危険な体験を選んだ。一人前の意志と判断を持った人の選択は尊重しなければならない。一つの人生の重さ、その人をそのような生へとかりたてる不思議な情熱というものに対して、人はもっと謙虚になるべきである。
 



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