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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 耳の中のコーヒー豆  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/07/07  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1996/08  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   耳垢騒動は、事件の背景からゆっくり話さなくてはならない。
 と聞いただけで、ぞっとしている人も多いだろう。前置きが長くて、話の要領の悪いのは、女性と老人の特徴だからである。私は女性で年寄りなのだから、この両方の特徴を兼ね傭えて当然というものである。
 今年四月、車椅子や盲人の方たちとローマヘ行った時、私はついでに今勤めている日本財団の仕事でFAO(国連食糧農業機関)の本部へ顔を出した。
 FAOからはその前に、この秋ロ?マで開かれる世界食糧サミットの開催費用を出してもらえないか、という要請があり、その件について日本人のN氏が財団に説明に来られるという話だったが、ローマに勤務するN氏の一時帰国の日程と、私のスケジュールとは、どうしてもうまく合わなかった。それで、それなら、私の方がローマにいる間に伺いましょう、ということにしたのである。FAOも国連の一つの機構だが、一般に国連というものに対する私の(だけでなく世間の)印象はこの頃あまりよくない。第一の理由は、傭っている人間が多すぎることである。国連の機関自体が、失業対策になっている、としか思えない。私たちは素朴に難民の援助に金を出すつもりであっても、その金が国連の機関の職員の給与に使われる比率があまりに多くなったら、どうもおもしろくないのである。さらに日本財団としては、どうしても自分のところの人員構成と引き比べる。私たちは年間六百から七百億円の子算を九十人に満たない人員で動かしているのだが、それなら国連の諸機関はどうなのか、という考え方である。もちろん仕事の内容は明らかに違うのだから、現場に出て行ってしなければならない部分が多ければ、人員の数も飛躍的に増えるのは当然だ。車両もたくさん要るだろう。しかしそれにしても、だ。
 今度の食糧サミットも、聞いてみると首を傾げる点が多い。会議に出席する人員は六千人だという。出席するのは、飢餓にさらされる恐れのあるアフリカなどの国々の地方の指導者たちをも含むというが、六千人も集まって会議などできるわけがない。もちろん分科会をするのだろうし、中にはまじめな人もいるだろうが、その多くはただのローマ見物にやって来るつもりだろう。そういう人たちが当然混じっている会議に、金を出す必要があるかないか、である。
 私は日本財団で働くようになってから、各部の決定にほとんど口を出すことはなかった。各部署は明快な選択の理由を示して来ていたし、その背後にはきちんとしたルールと、うさん臭さを嗅ぎ分ける長年の体験や時の変化に対応する機能も十分に持っている人々がいたからであった。そして私も海外邦人宣教者活動援助後援会という小さな民間の援助団体を実際に二十五年間やって来たから、現場の判断の背後にある状況に関してだけなら、かなり深く読めるかもしれない、という訓練を積んで来ていた。
 前置きが長いのを断ったのをいいことに、もう少し脇道へ逸れたいのだけれど、FAOのようにほんとうに申請の内容を聞かなければわからない場合は別として、私が職場でどうしても理解できなかったのは、私に会って特に頼みたいという特別扱いを好む人が後を絶たないことだった。私はそれに対しては拒否も推進もしなかった。人に会うということは私の任務である。しかし私に会っても会わなくても、結果は全く同じ、ということがどうして世間はわからないのかな、と不思議だった。たぶん世間は私とは別の論理で動いていて、頼まれれば断れないのが普通だと思うから頼んで来るのだろう。ところが私は頼まれても頼まれなくても同じなのである。いいプロジェクトなら、私が黙っていても財団の現場が必ず拾うと思うから何もしないのだ。
 私の知人や「少し経緯を知っているグループ」が申請をしていることもあるが、そういう時も私は何一つ言わなかった。知人の場合は殊に応援演説をしないことに決めていたからである。もちろん間違った解釈が行われていたらきちんと訂正をするだろうが、後は現場が決めることだ。
 或る時、私の所へ脇から「宜しくお願いします」と行って来た団体の申請したプロジェクトが、正式に決定されていたことがあった。それは今、日本財団が重点的に進めようとしている老齢化社会に対応する組織作りの方針にぴったり合う仕事だからである。するとその人から「ありがとうございました」という伝言があった。私が口添えをしたからだ、と思っているらしかった。しかし私は何一つそういうことをしていない。いささかでも特別扱いする意味は、財団の仕事にはないのである。私はただ決定の書類を見て、ああ、よかったな、と思っただけだから、その人も別に私にお礼を言うことはないのである。もっとも物質やお金ではない、心と言葉だけの感謝なら、もっと世間に溢れた方がいいということはある。
 今度の巡礼には車椅子を押すための要員として、日本財団からも二人の職員が参加していた。よそから突然やって来た私よりもっと着実に国際的な交渉に馴れてもらうために、私は彼らをFAOに同行していたが、帰り道、私はN氏の案内でパンテオンからナボナの広場まで歩いた。ローマは初めてという二人に、団体としてではなく、静かなローマの裏町を見せたくもあった。その途中でN氏の顔見知りの音楽酒場へ寄って、昼前だったから主人一人しかいなかったけれど、そこで歌を聞かせてもらったりした。ローマに住んでいる人のローマの話を聞くのは、実に楽しいことだった。
 N氏はそこで、或る店で売っている特別なモツァレラ・チーズの話をしてくれた。彼の友人の一人は、そのチーズを日本まで持って帰ってくれれば、東京で一番有名で一番高い料亭を御馳走すると言うに違いないのだそうである。
 私はローマで生活したこともないし、チーズに関しては全く無知と言ってもいいくらいなのだが、モツァレラについては僅かな思い出があった。それを初めて見た時、水の中に浮かんでいたので、イタリアにもお豆腐があるのか、と思ったものである。私たち夫婦がよく行くトラットリアでは、町の男が、そのチーズをただフライパンで素焼きにしてもらってオリーヴ油をかけて食べていた。そして私自身は町の食料品屋でこのモツァレラを買い、東京に持って帰るつもりでロンドンで二泊しているうちに、冷蔵庫に入れておいたにもかかわらず腐らせてしまった情けない経験があるのである。
 N氏は私たちが帰りにローマに寄る時に、このチーズを買って届けます、と言ったが、私はうまく再び会えるかどうかも疑問だったし、「ええ、ありがとうございます」という程度だった。N氏は勘のいい人だったので、「どうぞ、今度のこととは一切関係のないことですから」と笑って釘を刺した。
 職業的な立場故に贈られる「もの」に対して、私は極く荒っぽいルールを決めてある。昔からの小説家・曾野綾子にくださるものは頂いておくことが多い。しかし日本財団の曾野綾子に頂いたものは、さっさと財団に持って行く。お菓子は秘書課の美女たちのおやつ。お蕎麦や蜜柑のようなものは、老人ホームなどに配って下さい、と言ってある。実を言うとこれもなかなか面倒なことなのだが……。
 私だったら言うだけで忘れてしまいそうだが、N氏は律儀な方だったので、私たちがイスラエルからの帰り、再びローマに一泊した翌朝、そのモツァレラを届けてくださった。N氏は財団の職員にもチョコレートをくださった。
「頂いていいんでしょうか」
 と一人は言った。
「いいでしょう。ご好意ですよ。気になる時はささやかなお返しということをすればいいんですよ」
 と私は答えながら、お返しとは何というひそかなよき制度だろう、と考えていた。
 若い二人が心配したのには理由がある。日本財団には職員が外国で誰かと食事をする時にはこちらが払う、という不文律があるらしかった。気持ちはよくわかるし、原則はその通りがいいように思える。しかし時にはそのルールが人の心を縛ってしまうこともあるらしかった。「せっかく日本財団の人が調査に来てくれたんだから、せめて土地のお料理をごちそうしたいと思ったのに、財団の人にお勘定を払われてしまったんですよ」というクレームを私は聞いたこともあったのである。ローマのような先進国ではそうもいかないだろうが、財団がお金を出す可能性の高い途上国では、土地に詳しい人の知っているローカル・レストランでは、時には百円、二百円から五百円くらいで大ごちそうが食べられることはざらである。
 途上国でフランス料理を食べなければいいのだ。ごちそうになる時は、必ずローカル・レストランを希望し、その土地の人は何を食べているかを知り、食事の間にもノートを脇において、十分に土地の事情を聞いて勉強すればいい。それがご馳走をする側の喜びでもあるだろう。日本財団は「官官接待」「官民接待」反対の風潮に、反対だ。人間はお互いに質素に楽しく食事をしたり、ピールを飲んだりして、柔らかな心を保つことが大切だ。それによってルールを曲げたり、私情に動かされたりしなければいい。それに最近の役人は、人から自然に受けたささやかな好意に対しても、礼状一つ出さなくなっている。全く異常な非人間性を当然の保身の術と思うようになったのだ。
 愚かしいほど公正なルールを守ることと、私情を入れないことなら、私は得意中の得意だった。つまり何かしてもらっても、その時神と人とに深く感謝して、後はけろりと忘れてしまえばいいということだ。忘恩ほど楽なことはない。私の任務の一つは忘恩的冷酷という悪評を受けてルールを通すことである。世の中の人は、律儀過ぎるから、もらったものをずっと覚えていて汚職が起きるのだ。私のように、人にしてもらったことをけろりと忘れるような奴には、不純な世間の方でも直ぐ呆れ返り、黙っていても何もしなくなるから、それでも世の中は清潔になるのである。
(ここまでが前置き。どうです、老人的にしてかつ女性的な長い前置きでしょう)
 N氏のモツァレラを最後の一片まで、私は大切に食べた。全く米の飯のような止められない地味なおいしさである。しかしモツァレラにはもう一つ心のこもったおもしろいものが添えられていた。イタリア製の耳掃除一式だったのである。その仕組みは次のようになっている。
 ソフト・アイスクリームのコーンのような筒型の先に火をつけて、それを耳の穴におっ立てる。それだけである。顔の上で火がぼうぼう燃えているのだから燃え滓が落ちてきやしないか、と心配になるが、それを防ぐようなポール紙の鍔がちゃんとついているから安心なものだ。途中でぷちゅぷちゅとものの弾けるような音がする。これが真空になったコーンの中に、熱い熱気で溶かされた耳垢が吸い出されて来る音である。
 N氏によるとこれで掃除をすると脳味噌のひだの中まできれいになるような気がする、という。
 ちなみにこの商品の名前は「OTOSAN」である。今は「根回し」や「布団」さえそのまま国際的に通用するようになったというから、この「OTOSAN」は多分「お父さん」のことだろう、などとイタリア語のわからない私は勝手に推測していい気なものである。後でもう一種類「CONIX」という同じ原理を使った商品があるのがわかった。
 こういうすぱらしいものの存在を教えてもらったのはまぎれもない役得というものである。役得とはほんとうにいいものだ、と思いながらN氏に礼を書いた。すると二ヵ月ほどして再び「CONlX」が贈られて来た。
 その夜、うちの「お父さん」の耳からは、集めるとコーヒー豆二粒分くらいの耳垢が取れた。夫は片耳が幼時の中耳炎のために聞こえなくなっている。だから片耳は非常に大切なのである。
「急に自分の声がよく聞こえるようになった」
 と彼は言った。しかし聞こえ方は少し異常なようだった。翌日の夕方、彼は、
「もう一度やってよ。まだありそうな気がするから」
 と言った。もうこうなると完全な中毒だ、と私は思いながらもう一度コーンに火をつけた。驚いたことに、その時もまたコーヒー豆が一粒採れた。私は意地になった。
「もう一度やりましよう」
 コーヒー豆は今度は少し小粒なのが一個だった。
 しかしその後で、夫の聴力は急になくなってしまった。私の聞いているテレビの音声の意味が聞き取れない、という。いつからこんなに聴力が衰えていたんだろう、と私は愕然とした。
 その夜、私は掃除法がまちがっていたのではないか、と考えた。多分溶けだした耳垢が鼓膜の上に土石流として流れ出して堆積したのだろう。だからあのコーンは、耳の穴に対して垂直にではなく、水平に差し込むべきだったのではないだろうか。
 翌朝夫はすぐ、近所の耳鼻科に行った。ドクターにも、このイタリア製の貴重な耳掃除を一個おみやげに携えていた。
 帰って来た夫は笑っていた。果して鼓膜の上に流れ出ていた土石流を剥がすと、音はさあっと流れ込むように鮮やかに聞こえるようになった、と言う。こういう耳は「耳こう栓塞」というのだそうだが、「こう」は孔か垢か、どちらを書くのだろう。
「それで、今回の土石流の量はどれくらいだったの?」
 と私は尋ねた。今回の収種もコーヒー豆一粒分であった。
 人生七十年も生きると、コーヒー豆を五個分も耳の中に溜め込むことがあるのだろうか。世間の難聴者の中には、耳の中にコーヒー豆を幾つも入れているから聞こえが悪くなっている人も多いのではないだろうか。とすれば、これは笑いごとではないのである。
 これらの商品はまだ日本では売っているところを知らない。
(一九九六・七・七)
 



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