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一九九七年十二月五日 北京の人民大会堂。私は何も働いていないのに、日本財団の会長だからというので日中医学奨学生の十周年記念式典で挨拶をすることになり、日本人の正装だから着物を着る。一九七五年に日本の文化使節団の一員としてここでとう小平氏に会った時も着物を着ていた。 私は不熱心なカトリック教徒で、昔から神はどこにおられるかということに対して、天上とか、心臓のあたりとか、右後方とか、幼稚な発想をしたことがよくあった。しかし聖書を読めば、神は私たちがいつも相対している人の中にいるという、神学的な位置関係が明白に述べられている。つまり医師なら、今目の前にいる患者の中に、神がいる、と考えるのが妥当だ。しばしばその神は、病重く、心萎え、惨めで、貧しい人の姿を取って現れる。そう私は解釈している、という意味のことも言う。 ふと気がつくと、人民大会堂の天井には、太った共産党の赤い星が私たちを見下ろしていた。その星の下で神を語った人は、今まで何人いたか。 終わると二千五百人の大パーティーになる。中国側は皆、日本でお世話になった恩師たちに会えて、小学生のように嬉しそう。中国人ドクターたちのカメラが、二千台はあったと思う。最後は皆がテーブルを離れ、笑いと記念撮影で楽しいごちゃごちゃ。 私は中国側の何人かに、二つのことを頼む。少しの余暇を、貧しい人のためにただで診療して上げてください。日本に何か大きな災害があったら、助けに来てください。この二つを頼んで、指切りゲンマンをする。約束違えたら、指切っちゃうゾ、とドクターたちに言ったら「知ってます、知ってます」。数人の人が「僕もカトリックです」と私に言いに来た。 十二月七日 先月以来、初めてゆっくりした日曜日。ボタ(二目と見られない模様の駄猫)が、近所の犬にお尻を噛まれた経緯をやっと落ちついて聞く。 ケチンボの夫はぼやくことしきり。「ボクがせっかく、渋谷まで電車賃百九十円を倹約するために歩いているというのに、ボタの奴の治療費に七千円もかかった」 因みに、うちから渋谷まで歩くと約十キロ。ご苦労さまな人がいるのである。 十二月八日 日本文芸家協会と国税庁との懇談会。いつも思うのだが、戦争中、応召して大陸に行き、辛うじて生きて帰ってずっとその時のことを書いている作家の必要経費は、幾らに計算するのか。兵隊だから、大陸に行くのだって「電車賃」はかかっていない。その後もずっと軍隊のアゴアシつき、と見れば見られないことはない。個人の出費はなしとも見える。しかし命と健康は保証されなかったのである。 私の作品では、はっきりとこのことを書こうと決めてから、実際に新聞連載が始まった時まで、十七年かかったのがある。単年度の計算ではとても必要経費など出ない。もっとも私自身は「お金の計算をすると小説がテキメンに悪くなる」と思い込んでいるので、自分の収入もよく知らない。取材費は少し大きなものでも、かなり若い時から出版社や新聞社に頼らずすべて自分で出して来た。その代わり生活はできるだけ簡単に無駄なく、というのが好きだ。 夕方から、日本財団で何カ月かに一度ずつやっているマスコミとの懇談会。財団が補助した先に、経理上の不正な操作が監査部の調査で見つかった事件も報告。ただしお金はきちんと返還された。 席上、こちらの手落ちで、数字上のデータを配る手配がきちんとできていなかった面があったので、終わってから緊急に補足のデータを出席記者全員にファックスで送るように指示。夜八時四十五分までにすべての作業が終わったというのでほっとした。「誰が、いつ、どこで、何のために、どんな風に、何をした」の六つの要素が、必ずあらゆる報告書に、自動的に明記される癖を、普段からつけるように部長さんたちに頼む。 十二月十一日 急いで畳四枚分くらいの庭の畑を耕す。急いでというのは、この温かさなら、まだ種を播いても発芽が間に合うと睨んだからである。そのため畑に残っている春菊を全部引っこ抜く。バケツいっぱいあった。夜は豚鍋。白菜、しらたき、ねぎ、椎茸、それにこの春菊をざるいっぱい。鍋に入れると、三十秒もしないで柔らかくなる。 十二月十二日 運輸省と厚生省へアフリカ旅行に若者たちを出して頂いたお礼に行く。手土産は、その時に写した彼らの「雄姿」を、五十枚ほど絵葉書にしたものだけ。ガール・フレンド宛ての年賀状にするともてるに違いない、というのが私の思惑。しかし両省の事務次官も見て、いい写真だと褒めてくださった。来年はアンゴラ、ザイール、ブルキナファソをやりたいと思う、と計画をお話しする。 十二月十三日 三戸浜の海の家へ畑をするつもりで行ったが、風邪を引いている。背骨が芯まで寒いのでお風呂で温まろうとしたが、それでも寒さが抜けない。今年の分の連載が少しずつ終わって行ったら、気が緩んで病気になった。情けない。
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