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一九九七年九月九日 平成九年九月九日だということを朝のニュースで知る。私は平成をあまり使わない。足し算と引き算が、昭和から平成にかかると、うまくできないからである。 午前中、日本財団で理事会。お客さまやインタビューなどがあって、午後四時から、湯浅浩史先生来訪。十一月のマダガスカル調査について詳細な状況を伺う。 私がマダガスカルへ行ったのはもう十四年くらい前のことだから、道もずっとよくなっているらしい。それでも南部の最もマダガスカルらしい山が残っている所へ行こうとすると、悪路を十数時間行くことになる。湯浅先生のご紹介で守谷商会の守谷社長に「電話で初対面」のご挨拶をし、チャーターフライトをしたらいかがでしょうか、と言うと、「ああ、それはいいでしょう」と賛成して下さった。アフリカでは陸路を行くより、小型機をチャーターして動いた方が余程安全ということもある。悪路の上、車輛の整備不良、積荷の重量オーパーや積みつけの未熟練、交通量が少ないために逆に気を許しすぎること、などがあって、長距離の移動は命がけ、という感じはある。 九月十日 午前中に「婦人公論」の今月分の連載を終えて、二時に家を出て羽田へ。関空からミャンマーに向かう。 関空で札幌大学の鷲田小彌太先生、長島愛生園副園長の中井榮一先生と合流。こちらは財団から渡辺一利さん、伊藤みきさんの二人。他にミャンマー語の女性通訳とインドシナ半島における私のアシスタント一人の七人。 中井榮一先生とは二十五年前、インドのアグラにあったハンセン病院の取材の時にお目にかかった。日本で数少ないハンセン病の専門家。今は長島愛生園で六百人の患者さんを診ておられる、と言う。初対面の方たちがすっかりうちとけて笑いが絶えないので、飛行機の後の方に乗っていた女子学生の一団が「あの人たち、何なのかしら」ということになったらしい。 夜九時半、ヤンゴン着。ねっとりと暑い夜。財団の調査はホテルも賛沢な所に泊まらないことになっているが、サミット・パーク・ビューホテルはきれいで言うことない。笹川記念保健協力財団の湯浅洋先生と合流してほっとする。 九月十一日 朝からヤンゴン・ジェネラル・ホスピタルの中央ハンセン病診療所を訪ねる。患者さんは子供を抱いた二十歳の若いお母さん、日収六百チャット(二百円)の大工さん、農民など。ここの女性たちは、タナカという黄色っぽい植物性のお白粉を刷毛目をつけるように頬に塗るのだが、私はそれをハンセン病の薬だと思っていた。本当にこういう危ないまちがいがあるのである。 中井先生は久しぶりに、新しい患者さんに接して、感動しておられる。私は昔、インドで、かなりよく説明を受けたつもりだったが、病変の残った皮膚は汗をかかないこと、など知らなかった。暑い国では、ハンセン病そのものは治っても、汗をかかない皮膚の面積が大きくなると、それだけで患者さんは苦しむという。 若いお母さんは左目の瞼に麻痺があって、完全に目をつぶることができない。だから夜寝る時には、眼球の湿度を保たせるために、アイ・マスクをしなければならない。 大工さんは足の裏の感覚がないので、毎日夜寝る前に、眼で傷がないか見るように注意されている。傷があったらただちに治療をしなければ、そこが化膿する。ハンセン病そのものより、こうした二次的な怪我が怖いのである。 ハンセン病は今は全く簡単に治る病気だが、ここまで放置すると、一生病気の後遺症とつき合って行くのが大変だ。 九月十二日 ミッチナーに移動。 日本財団が、ミャンマーに出している「必須医薬品購入資金回転システム」の薬がどのように使われているかを調べるために、ミッチナー近辺の保健所を回った。 午後からだけで三つの村。シタプルー、ナアンナン、マンクリン。 こうした村でハンセン病の患者さんたちに投薬しているのは、しっかり者のお産婆さんたちである。ちょうど患者さんも来合わせていた。この辺は結節ライが多い。古い患者さんは、鼻や耳がこぶこぶになっている。 五十七歳の男性はリタイアした兵士。指が不自由になっていてナイフも持てない、という。病気は軍隊でうつって来た、と信じている。 五十八歳の農家の人に、お子さんは何人ですか?と聞くと、二、三人と答える。二、三人はないでしょう、と言うと、孫が一人入っている、というので、皆で嬉しくなって笑った。 マンクリンの村では、責任者がミッチナーの中央保健所から、明日人が行くぞ、と予告されていたらしく、「一九九六年八月二十七日に薬を受け取りました」などと答える。表もかなり最近作られたものである。緑色のマジックが一年前と先月と全く同じ色だからだ。緑は普通褪色しやすいものである。 夜は葉っぱに包まれたカチン料理。おいしくて安くて、ただただ満足。
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