|
思索的な生活をしている人が、私と友達の話を聞いていて呆れたように言った。 「あなたたちは、朝ご飯を食べ終わらないうちから、もう昼ご飯の話をしてるのね。よくそんなことが考えられるわね」 すると食通の私の友達が言い返す。 「あら、私なんか朝ご飯食べたすぐ後で、その日の昼と夜と、翌日の朝、昼、夜のご飯のこと考えてるわよ」 少し冗談で誇張はあるにしても、そこのうちは一家揃っておいしいもの好きである。私はと言えば、この年になってから、急に料理をするのが好きになったので、いっそう食いしんぼうに拍車がかかった。しかしそれは別に料理がうまくなったということではない。ただ作るのが早くなっただけだ。 早くなったということは、明らかに手抜きもしているということである。昔も今も、私は何かあると「ああこれをしないで済ます法はないかなあ」とまず思う癖がある。この本質的な怠け癖に加えて年のせいで、すべてのことを楽にやりたい、という情熱に取りつかれるようになった。だから台所を、やたらと片づける。ただただ、探しものをするのが嫌さに整理をするのである。 だが、小説と料理があると、一生退屈しないで済むな、という気はしている。前にも書いたと思うけれど、老人料理というものを考えるのも、なかなかおもしろいのである。 独り者の老人が、簡単で、短時間ででき、栄養が偏らず、胃が悪かったり、歯が抜けてしまったり、手があまりよく利かない、というような状況になった時でも、どうやら毎日変化をつけて、自分の手料理を食べられる方法を考えるのである。 その基本的テーマも「うまい手抜き」ということだ。ほんとうの料理というものが、手を抜かないことにあるとすれば、全く恥ずかしいのだが、どうにか自分だけを生かしていけるということが、老年には偉大な意味を持つようになるのだから、それでいいのだ。 そんな話をしていたら、また別の友人が真面目な顔でおもしろいことを言った。 「でもいつでも次の食事に何を食べようか考えているような人には、あんまりボケた人がいませんね」 そう言われれぱそんな気もするが、そんな風に言い切っていいのかどうか。ただ老人ホームなどで時々、年や健康の割には元気のない人がいるのは、自分の食べ物は自分で作らねば生きて行けない、という動物的生活の基本を免除されているからかもしれない。 何とかしておいしいものを食べよう、そのためには材料を買いに行こう、自分好みの味付けを創出しようという執着は、やはり一種の明瞭な前向きの姿勢なのだから、それは老化防止にはなるのかもしれない。食欲も物欲もなくなったら終わりだから、いささかのむだや愚かさは覚悟の上で自分に許した方がいい、と考えることにしている。
|
|
|
|