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ダイアナ妃の事故死の直後、「パパラッツィが彼女を殺したのよ!」と叫んでいる女性がテレビに出た。私もまだその瞬間、その言葉の意味を知らなかったから、誰か個人の名前かと思ったが、イタリア語で語尾がiで終わる名詞は、複数を示しているのである。 私たちは今までにもよくいろいろな存在を嘆いた。「日本にはどうしてああタカリの精神しか持ち合わさない政治家が多いんでしょう」と言う。しかし政治家がタカリの精神なら、その政治家を推したり投票したりしたのは、同じような精神構造を持つ選挙民だった。 いつか国会議事堂を見学したら、「ハイ、ここで写真を撮ると、議事堂が全部入りますよ」という記念写真撮影用の場所を議員さんの秘書が教えてくれた。選挙民は国会見学をすると言って出てくるが、実は金銭的にはタカリ遠足なのである。オラが国から出たセンセイのしたててくれたバスに乗り、センセイの用意してくれた弁当を食べて、国会見学をするのだ。自費で行って先生の活躍ぶりを監督しようという人はほとんどいない、と言う。センセイもタカリなら、選挙民もタカリだから、似た者同士なのだそうだ。 パパラッツィを非難する人はいるが、パパラッツィという卑しい職業をなり立たせているのは、パパラッツィの撮った写真を載せた大衆紙を買う庶民である。だからダイアナ妃の葬列を見送って涙した人でも、その手の新聞を買った人は、多かれ少なかれダイアナ妃の追っ掛けや覗きに手を貸し、彼女を追い詰めた事態の出現に責任があることになる。 日本のテレビ番組の中でも厚かましい覗きを売り物にしているのがあるらしい。私もたった一度だけ、日本財団という組織で働くことになった時、その手のテレビ番組の来訪を受けた。門から少し離れたところに止めた車の中で私を張っているのが、うちの屋根裏部屋の窓から見える。 私が母から教わった昔風の教えは??今どきこんなことを言うと時代遅れが目立っておかしいのだが??他人の生活は、できるだけ邪魔をしないように、ということだった。正午から一時頃までとか、夕方五時以降は、人のうちに電話をかけてはいけない。どうしても掛けなければならない時には「今お食事中でいらしたんではありません?」とか「お食事のお支度中でいらしたでしょうに、申しわけありません」と言うことをしつけられでいた。しかし今、うちにかかって来る電話は、この昼ご飯時を狙ったものが多い。 私は今でも、配慮というものは香がいいように感じている。自分の都合だけではなく相手の立場を考えられるということが、動物と人間の基本的な違いだからだ。そしてマスコミは、そうした人間的な特性を充分に考慮した上でもまだ充分に成り立つのである。パパラッツィだけが加害者なのではない。そういう不作法に馴れ、それを楽しむ人は、誰もがパパラッツィとなって人を殺している。
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