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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: カンボジア王国点描(中) ポル・ポトとは何ぞや?  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/04/14  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  死とのランデブー
 カンボジアを訪れる旅行者は、何人もあのポル・ポトの大虐殺の話を避けて通ることはできないのではないか。それは一九七五年四月、親米派のロン・ノル政権が支配していたプノンペン陥落以降、七九年一月、カンボジア民族統一戦線を支援するペトナム軍のプノンペン攻略にいたる三年十カ月のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の為政下で起こった出来事である。
 少なく見積もって二百万人のカンボジア人が、ポル・ポトと称する同じカンボジア人の狂信的政治指導者によって、虐殺された。拷問、処刑による殺害のほかに、飢餓、栄養失調、過度の心理的ストレス、医療不在のような間接的な殺害行為も含まれる。当時の国民の四分の一が、この世から抹殺された。
 プノンペンの本屋で求めた『カンボジア一九七五〜七八 死とのランデブー』という英文の本を拾い読みして得た大虐殺のおよその規模である。あれからまだ二十年しかたっていない。この不条理、この文明破壊、いったい何がどうして起こったのか。これこそ今日のカンボジア旅行者の最大のテーマでなくして、ほかに何があろうか。
 そう思って、プノンペン市内にある通称、“大虐殺博物館”、トウール・スレンを訪れた。元は高校の建物だったが、ポル・ポト時代は政治犯の刑務所として使われていた。現在はクメール・ルージュの残虐行為を記録、保存する博物館として使用されている。
 カンポジアのアウシュビッツとも呼ばれている。入場料一人五百リエル(二十円)を払ってゲートを入る。見学者は意外にもわれわれ一行と、フランス人のカップル一組しかいなかった。通訳兼ガイドの田中さんの話では、観光客はこの場所を敬遠する人が多いという。
「日本からのお客さんは、特にご要望がなければ、お連れしません」と。中庭を囲むようにして、三階建ての校舎が四つ。A棟の一階には独房兼拷問の部屋が十室ほど並んでいる。タタミ十畳ほどの部屋に、ベッドがひとつ。鉄の骨組みとスプリングだけのベッドで、もともとマットはなかったという。囚人をベッドに縛りつけておいた鉄の鎖の手かせ、足かせも、そのまま残っている。床には黒い染みが……。血痕だという。
 B棟の元教室は、レンガでこまかく仕切られていた。三畳ほどの細長いブースで雑居房として数人ごとに収容されていた。この棟のホールのようなところには、おびただしい数の顔写真が展示されている。ポル・ポト派は、記録魔だったそうで、処刑を前に写真を撮り、タテニ十センチ、ヨコ十五センチ大の顔写真をカベ一杯にはりつけた。それがそっくり、残っている。処刑前、イスに座らせ、前と横を撮った大判の写真もある。うつろな目の人、恐怖の目、うるんだ目、そのなかにひと筋の涙が頬を伝わる女性の横顔もあった。
 死の直前に何を思っていたのか。目がすべてを語っているようでもあった。ポル・ポトのプノンペン支配のもとで、通算で二万人が、この刑務所に収容され、ペトナム軍が政治犯解放のため突入したとき、生存者は七人しかいなかった。その証言をもとに、拷問の様子を描いた油絵が十枚ほど展示されている。水責め、火責め、むち打ちなどは序の口だ。女性の胸の突起をペンチでひねり上げる図や、ノコ切り責め、赤ん坊を空中に放り投げ、銃剣で串刺しにする地獄絵もあった。加害者は黒装束に黒のレーニン帽、犠牲者はすべて黒ズボン、上半身裸だ。
 ここで、当然の疑問がひとつ出てくる。この刑務所に収容されていたプノンペンの市民は、医師、牧師、僧侶、エンジニア、学者、銀行員、芸術家、旧政府の公務員、ジャーナリスト(含外国人)など、非戦闘員の知識人とその家族たちである。ポル・ポト政権の転覆を企てる秘密結社の人々でもない。もともとポル・ポトの為政のもとで、このカンボジアの首都にそんな抵抗組織が存在する余地もなかった。七五年四月十六日のロン・ノル指導下のプノンペンの陥落の日、「米軍の絨緞爆撃がある」とのふれこみで、当時の二百万人のプノンペン市民は、わずか三日間で全員農村に集団連行されてしまったのだから??。
 とすると、ここに運悪く選ばれて収容された人々全員に、さしたる情報を引き出せる見込みもないのに、なぜかくも執拗な拷問を加える必要があったのか??という疑問である。毎日、毎日、同じことをやらされる獄史にとっても、たとえそれが嗜虐的な男であったとしてもウンザリしないだろうか。

何のための拷問か
 ユダヤ人虐殺で世界的に悪名高いナチスも、目的のはっきりしない拷問をポル・ポト派のように日常繰り返していたという記録はない。
 この点を、現地の何人かの知識人に問い質した、そこから得られたものは、ポル・ポトの“エセ”革命理論の幼稚性と彼の偏執狂的性格に由来するのではないか??ということだ。ポル・ポト。この人は今でも生きている。西のほうのタイ国境の山地で、クメール・ルージュの仲間に監禁されている。彼は二五年、南部の米作り農家に生れる。本名はサロト・サアル。六年間仏教寺院の“寺小屋”に学び、このあと大工の学校に入る。四九年から五三年までパリに留学する。
 なぜ、一介の何の変哲もない若者がパリに行けたのか。このあたりの記録は、現地でも見つからなかったが、「ウワサでは彼の兄嫁がカンボジア王お気に入りの踊り子で、その人の口ききで、パリ留学の許可がおりたらしい」と田中さんはいう。パリでは技術学習の奨学金をもらっていたが、もともと勉強好きの若者でなかったとみえて、ほかの前途有為なカンボジア留学生がバカロレア(大学受験資格)に続々と合格したのにひきかえ、彼は失敗続きで大学進学をあきらめた。その代わりというわけでもないのだろうが、仏共産党の超過激派閥に入党した。
 六二年、少数の人民革命党員を集めて、カンプチア共産党を結成。ジャングル地帯に潜行した。やがて中国文革派に共鳴し幼稚な武装闘争をはじめた。およそ武力革命をめざす過激派組織は、同じ左翼でも複雑思考のできる知識人や、バランスのとれた人間は向かない。ソ連や中国の例にもあるとおり、単細胞の断定魔で狂信的なロマンをもつ男に牛耳られてしまう。学問嫌いのポル・ポトはまさしくそういう男の資格を備えていたらしい。
 ポル・ポトの極小勢力がジャングルから一挙に歴史に登場できたのは、シアヌーク殿下の結成したカンプチア民族統一戦線に参加したのがきっかけだった。統一戦線の中でポル・ポトは、軍事指導権を握り、シアヌーク派を抹殺した。七五年四月、統一戦線の勝利に終わったとき、プノンペン市民の見たものは、仏教を心の支えとする慈悲深いシアヌーク殿下の温厚な顔ではなく、黒装束の異様な集団ポル・ポト派であった。
 ポル・ポトのやったことは、幼稚かつ、危険極まるカンボジアの“革命的浄化”である。全国民の集団化と平等化を試みた。国民を旧人民(農村の人々)、新人民(都市生活者)に二分類し、新人民を遠隔地に強制集団移住させ、無名の労働力、つまり農奴に仕立てあげた。貨幣、戸籍、商業、宗教は廃止され、教育、医療、郵便などの公共サービスをやめた。

眼鏡をかけたいだけなのに
 プノンペンの知識人や専門家などのエリートは、刑務所に収容され殺された。それが私の訪れたトウール・スレン博物館である。話を元に戻そう。なぜ、死刑執行前に執拗な拷問を繰り返したのか??というテーマである。都市エリート層への憎悪や侮蔑の念は、たしかにあっただろう。だがそれだけでは説明がつかない。多分、彼は自分の“革命的浄化理論”? に自信が持てなかったのではないか。そのために、たとえば、眼鏡をかけていただけで知識人とみなして男を捕らえる。そういう例は多々あったという。そして「自分は人民の敵で悪人である。平等こそが真の社会であり、自分は罪人であり死刑もやむをえない」といった、メチャクチャな供述書に署名させる。そのための拷問ではなかったか。
 自己の行為の正当化のために虚偽の自白を強要し、記録として保存する??それが世界に類稀なる拷問の動機であったように思える。
 中庭に出る。頭がくらくらする。暑さだけのせいではない。太い角材製の超大型のブランコ様の器具が、五つほど夏草の中に立っている。囚人を宙吊りにする拷問器具であったという。元高校のこの刑務所は塀が低く、道ひとつ隔てた周囲の二階家からは丸見えだったに違いない。うっかりそう口走ったら、ガイドの田中さんが苦笑しつつこう解説してくれた。
「周囲の建物は確かにあの時代からあった。でも当時のプノンペンはゴーストタウンで人は住んでいなかった。解放後、農村から旧人民が押し寄せ空き家に移り住んだ。だから所有権ははっきりしません。三カ月も留守にすると他人に占拠されることもある。高級な宅地だったこのへんも同様です」と。ポル・ポトとは、英語でいうとPOLITICAL POTENTIAL(政治の可能性)の意味をもつ彼のお気に入りのペンネームだという。その狂気の“政治的実験”の後遺症が、この首都の今日の住宅事情まで反映しているとは……。
 



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