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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 今、改めて「骨折り損」の「くたびれ」「もうけ」  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/06/05  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1996/07  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   五月十二日の午前、私は夫と三浦半島で墓参りに行った。義父・義母・実母の三人の眠っている墓は、太平洋が見える霊園の岡の上の方にあるのだが、お墓まで後五歩という所で、私は突然転んだ。足の中の方で、何か含んだような嫌な音がするのも聞いた。
 私は今までにもよく転んだ。つまり歩き方が下手なのである。しかし膝を擦りむいても、骨を折ったことはなかった。しかし今度ばかりは敷石の上に転倒したまま自分の足を見た時、私はいつもと様子が少し違うのを感じた。私の足は突然馬のくるぶしを見るように形が変化していた。私はその時、人間の足が急に馬のくるぶしに変わるというのは、ギリシア神話の世界だな、と感じていた。
「足が折れちゃった」
 と私は後から歩いて来る夫に言った。同行者がいたのは、ほんとうに幸いであった。そうでなければ、私は救いを求めるために尻もちをついた姿勢で這って、自力で二百メートルは山道を下りなければならなかったろう。
 この霊園の経営者の、ご住職の一家と、私は大変親しかった。このお坊さまは、大学を出られた後に病気で視力を失っておられたが、私は臆面もなく、カトリックの聖地巡礼にいらっしゃいませんか、とお誘いして参加して頂いたことがあるのである。ご住職はその後、素晴らしい息子さんをボランティアとして送ってくださった。
 余計な話はどうでもいいのだ。ご住職はお留守だったが、奥さまがすぐ救急車を呼んでくださった。私が墓地の石畳に引っ繰り返って青空を眺めていると、夫が冷たいウーロン茶の缶を持って上がって来て、「これで冷やすといいよ」と言って足にかけてくれた。そして「腰の痛いの、石段上がって来るうちに直っちゃった」と笑った。彼は前日からぎっくり腰気味だったのである。そしてこのウーロン茶をとっさに持って来てくれたことが、この後、彼が如何に自分は冷静で女房に親切であるかを示す手柄話になったのである。
 青空を見ながら考えたことは、「しまったなあ。講演をどうしようか」ということであった。その日は看護の日で、私は座間で「神奈川看護フェスティバル」という催しのために講演をすることになっていたのである。
 奇跡的に、私は大して痛みを感じていなかった。救急車の中でも、私は夫が急いで救急車の後を追ってくることで事故を起こさねばいいけれど、とそればかりを気にしていた。
 私は横須賀の聖ヨゼフ病院に連れて行かれた。日曜日である。レントゲンを掛けるまでは、もう少し軽いけがを期待していたが、私の右足はめちゃめちゃだった。腓骨が薪割りで割ったように縦に折れ、脛骨の一番下の部分が折れ、踵の骨がくるりと脱臼していた。
 救急病院で、私は講演会のことばかり気にしていた。何が困ると言ったって、講演会の講師が突然来なくなることくらい、主催者が困ることはない。幸い、聖ヨゼフの整形外科の先生が、踵の骨を元の位置に入れてくださったので、動かした時の痛みは五十パーセント減ったような気がした。
 それで私は講演会に出る自信がついた。別に内臓の病気じゃないのだし、看護婦さんの集まりだから車椅子くらい用意してもらえるだろう、とそれも幸運だったような気がした。私は夫に座間の会場で落としてもらい、夫は先に車を運転して帰る予定だったが、こうなったら最後まで夫の運転に頼る他はない。
 私は生まれて初めて車椅子で講演した。演壇を取り払ったので、トークショー風になって、私としてはタレントになったような華やかな気分である。しかし視点が低いと、ライトがやたらに眩しい、ということも発見であった。
 講演が終わると、私は主催者側のドクターのお一人に相模原の北里大学の付属病院に連れていかれた。そこでも診断は同じだった。手術は不可避だという。しかしそれは足の腫れが引いてからです、と言われた。ドクターたちは親切だし、看護婦さんも優しい人たちばかりだった。私は運命論者だから、担ぎ込まれた所で手術を受けるのがいいような気がしていた。しかしその夜遅く、私の働いている日本財団の笹川陽平理事長が事故を聞いて病室を訪ねて来てくださった。日本財団の職員は聖路加国際病院に健康診断を委託していた。そんなこともあって、院長の日野原重明先生にご相談したら、
「聖路加なら早く直しますよ」
 という伝言があった、という。だから明日にでも、聖路加に転院する気持ちなら可能である、ということを言いに来てくださったのである。そこで私は初めて、現実の生活に引き戻された。私はこれでも財団で雑用を果たさねばならなかった。私が入院すると、必要なハンコやサインを誰かが病院まで取りに来なければならない。相模原まで来てください、というのは、不便なことであった。私はその場で、財団からものの十五分もあれば来られる築地の聖路加に転院することを決心した。
 私は月曜日の昼少し過ぎに築地の病院に着いた。ここの主治医のドクターの感想は、
「派手にやりましたな」
 ということだった。幸か不幸か骨には粗鬆症の兆候がなく、固かったので縦割りになった、という診断だった。そしてその夜にはもう手術を受けた。
 私は普段から健廉診断というものを受けたことがない。チェルノブイリを騒ぐくらいだったら、レントゲンの検査で「被爆」しないほうがいいという素人の論理である。その代わり、自分で花と野菜を作って、質素なご飯を食べて、しこしこ働いた方が健康にいいだろう、とそんな感じであった。低血圧気味なだけで、糖尿もアレルギーもなく、肝臓も正常でコレステロールも問題になるほどでもないという原始的な体だったからよかったのかもしれない。
 腰椎麻酔で一時間くらいで済むという手術は実際には二時間近くかかった。くるぶしの両側を十一針ずつ縫うほど切ったのだから、縫合にだって時間がかかるのである。これで私がライン・ダンサーになる夢は失われたわけであった。
 この手術の間中、私は麻酔の滝野先生に、ずいぶんおもしろいことを教えて頂いた。講義つき手術である。私が、自分の手術台上での姿勢を、両膝を立てて、傷のある右足はやや内側向きにおいていますか、と伺うと、私の足は水平に投げ出されており、右足は少し外向きに置かれているという。
 ついでに自分のお腹の辺りを触ってみて私は驚いてしまった。私のウエストは確実に二メートルほどはありそうな膨れ方をしているように感じたのである。もともとウエストが細いわけではないから、ニメートルくらいに腫れ上がったのかな、と思ったが、麻酔から覚めてみると、ニメートルというのは、どうも錯覚のようであった。
 私は眠さと戦いながら、作家のあさましさで、ずっとテレビで自分の手術の一部始終を見ていたのだが、私の足は、巨大な、味の悪いブロイラーのような外見であった。そこへ何かお醤油みたいなものをふりかけるのだから、いっそうまずそうである。
「あれは何ですか?」
 とお醤油の正体を尋ねると、消毒薬のイソジンだと言う。
「重い足だなあ」
 などという声も聞こえて、私はいっそう恐縮していたのだが、そのブロイラー風の足は、実感的に言うと私の両足の間においた誰か別人の切り落とした足を持ち上げているようにしか感じられないのである。
 こういう現実から遊離した感覚をファントム現象と言うのだと、私は教えられた。だから足を切断した人は、ないはずの足が痛いと言い、義足を付けると、自分のまともな足の先に義足を足したように感じられて、こんなに長くてはとても歩けない、と文句を言うのだという。
 二時間近くかかって「ほんとうにお疲れさまでした。ありがとうございました。さぞかしおタ食が遅れて、皆さま、お腹がお空きでしょう」という感じの手術が終わったのだが、こんなに素早く手術をして頂けたのは、私の足が、時間が経つに従って痛み出したことと、整形外科の三上先生や辻先生との間で、ユーモラスな会話があったからだった。ドクター方は、私のぎっしりつまったスケジュールの中で、手術後五日目に、京都で日本眼科学会の一般人向けの講演の予定があることを知ると「じゃ、それまでに間に合わせましょう」と言ってくださったのである。
 これはほんとうにおかしな会話だった。「間に合わせる」というのは、畳屋さんとか、大工さんとかが、使う言葉ではないか。でも私の足だって修理を必要としているという点では全く同じだった。
 後で知ったのだが、こういう無理が利く空気をこの病院が持つようになったのは、院長の日野原先生の実践のおかげであった。先生はもう若くはないという年になられてから、或る時ヘルニアの手術をされたのだが、三日目に仕事があって、鎮痛剤を飲みながら外出をされて、何でもなかったのであった。
 私は三日だけすべてのスケジュールを延期してもらった。インタビューはまあ時間のやりくりがつけられるものだし、私がホステス役を勤めるはずだったグレートブリテン・笹川財団のディナーも私がいなくてはどうにもならない、ということもあった。芸術院会員として皇居に伺う予定もあったが、両陛下の前で足を突き出しているのは、あまりにも失礼に思え、これはむしろお詫びを申し上げる方が礼儀にかなっているように思えた。
 今まで私は、障害者の方たちとこれで十三回続けてイタリアやイスラエルなどを旅行したが、私はいつも車椅子を押す側だった。おかげで使い方はしっかり見ていたから、こうなってみると大変便利だったし、一本の足が残っており、腕力もまだ適当にあるおかげで、扱い方もうまいものだった。
 私はお猿の気分になっていた。高い所に吊るされたバナナを見つけたお猿は、まてまてどうしたら、あれが取れるかと工夫するだろう。その気分といっしょである。この猿的な楽しみのおかげで、私は直接の治療以外の身の回りのことすべてを、はじめから自分ですることができた。洗面、歯磨き、洗濯、工夫すれば何でもできる。手術後三日目からシャワーも浴びた。この手順も工ラーをしないように自分で考えてやるとなかなか楽しいものであった。
 普段の私は、時々あまりの雑用の多さに頭がカッとなって、部屋の中を全く無意味に右往左往することがあった。しかし足が不自由になった後は、私の頭はいつもにないほど冷静に整理ができるようになった。手順をきちんと考えてから行動に移す。やり直しをするのはツライから、一度で間違いなく仕事を果たすようにしているのである。するときれいに順序立てができる。
 もっとも、私はこうした昼間のわずかばかりの「労働」に疲れ果て、夜はもう七時半くらいから眠たくてたまらなかった。微熱があるのもいっそうその怠け癖をかき立てた。いいやもう、脱ぎっぱなしの服なんか明日までほっておこう、と諦めもよくなる。障害者は皆、人間ができるものだ!?
 私の五月はいつもにないほど講演の回数が多かった。四月にはイタリアとイスラエルヘ行き、家で数晩寝ただけで、四月末から五月の連休にかけては日本財団の調査で、中央アジアヘ行った結果である。怪我をしてから退院までの二十二日間に、私は十三日間外出している。外泊をしようが、夜遅く帰ろうが、病室で座談会をしょうが、夜になって普段からお世話になっている整体の先生を呼んで痛んだ背骨を治療していただこうが、個室だから静かにすればお叱りを受けることもなかった。
 かねがね私が望んでいることだが、死ぬ日まで、たとえ病んでも、出来る限りの日常性を保たせるというやり方を、聖路加国際病院は既に実践していたのである。病人は病気になっても、それまでの世間の約束ごとは続いている。生活も仕事も、中断できているわけではない。その日常性を保たせ、しかもできるだけ早く、退院させ、仕事や家庭生活に復帰させる。これが高齢者が増えるこれからの時代の老人の医療のとるべき道だろう。聖路加国際病院はみごとにその先駆者的な方法を実践して見せていたのである。
 私の外出の中には、日本財団の責任者の一人として、尼崎と児島のモーター・ボート競走場へ行く仕事も組み込まれていた。八億円を三年間で使い切る予定の任意団体「阪神・淡路コミュニティー基金」の発表会を神戸で行うスケジュールができていたので、今さらとりやめることもできなかった。
 もちろんそれは、車椅子を押してくださる男手があったからできたことなのだし、飛行後では障害者用の特別の車椅子サービスも受けた。すべて初体験である。まだ手術後二週間も経たないうちに、これらの仕事で十二時間以上も車椅子に座りづめだったので、私はひどい腰痛で立てないほどになった。床擦れの一歩手前のような血行障害が出たのである。
 車椅子は楽に見えるが、一生寝るか座るかしていなければならない人の苦痛を私は今度初めて知った。ギリシア語の見事な表現の一つにペリバテーオー=生活する、という言葉がある。ペリバテーオーという語は、歩く、という意味も持っていた。だから歩くのが嫌いな人は生活していないのよ、と私は悟ったようなことを言っていたが、実は歩くという行為がもっとも体の円滑な循環のためにはいいことなのだ、ということも、自分の体が不自由になってみて初めて実感したことであった。
 車椅子を押される側のあらゆる体験が、私にはほんとうに役に立った。或る地方のホテルには、車椅子用の部屋が全くなくて、私は宿を変えねばならなかった。たった一本の敷居のために、私は自分で自分のことができなかったからである。ドアの寸法が後五センチ広ければ、と思うこともざらだった。厚生省はこういう規格をはっきりと指示することをいまだに怠っている。
 兵庫県の知人のドクターが、
「いやあ、いい人が足折ったよ。ソノさんが足折れば、今後、車椅子押す時に必ず役に立つよ」
 と言われたのは、残念ながらほんとうなのであった。努力はしなかったが「骨折り」して「損」して「くたびれた」のは事実だし、「もうけた」部分があるのも確実だから、今はこの慣用句の重みに新鮮な驚きを感じている。
(一九九六・六・五)
 



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