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イスラエル人とパレスチナ人との抗争を見ていると、つくづく人間は平和だけを愛好する動物ではなくて、闘うのもずいぶん好きな生きものなのだな、という気がする。対立する二つのグループができた時、どちらかが百パーセントよくて、反対のグループが百パーセント悪いなどということはない。どちらにも言い分があるのが普通である。 個人の間で葛藤が起きたのなら、殴り合おうとする拳のリーチが届かない所に離れて暮らせばいいのだが、それぞれに父祖の地だという場所があるから彼らは譲らない。お互いに相手を追い出すまではケンカを止めない。それが正義だと双方が主張するのである。 テレビのニュース番組で見ていると、パレスチナの若者たちは、石弓と言うか、投石機というか、一種のパチンコのようなもので、イスラエル側に石を投げている。旧約のダビデ王もこれを使ったのだと、私などは見て来たように信じている原始的な「武器」だが、インドでは子供でも同じ構造の投石機で巧みに石を飛ばして梢の上の小鳥を落としていた。 止めるからますます闘いたくなるのではないか。好き勝手に闘わせておいて、誰も止めず報道もしなかったら、闘い甲斐がないから飽きて止めるのではないか、と思う時がある。どの国の内戦もそうだ。報道してくれるから晴れがましくなり、止めるに止められなくなる。ご勝手に何年でもどうぞ闘ってください、と言って放置したら間もなくいやになるだろう、と思うのは甘いだろうか。 イスラエルとパレスチナの間の対立は、双方の生き甲斐なのだ。旧約聖書に一度でも名前の出た土地は大切な父祖の地と見なして、現在はそれがパレスチナ人の地区となっていても、一部のイスラエル人は対立と危険を承知でそこに移り住む。簡素な数十軒の「団地」を建て、その周囲に鉄条網を張り巡らし、自分たちで自衛の防衛線を作る。体を張って土地を確保するのだ。 双方共、闘うことが生きる目的で情熱なのだ。その意味で両者は性格のそっくりな兄弟のように似ている。アメリカや日本などのよそ者に、調停などできるわけがない。 先日私の友人の大れい子さんが、他人の身代わりになってアウシュヴィッツで刑死したコルベ神父の生涯を、創作バレエで描いた。その味わい深い舞台を見ているうちに、現実にあり得ることではないかもしれないけれど、ユダヤ人の踊り手がナチスのSSの役をやり、ドイツ人が強制収容所のユダヤ人の役をやることができるのだろうか、という疑問が湧いた。そして数日後にたまたま浅利慶太さんに会ったので、その可能性を聞いてみた。 現実にそういう配役があることはめったにないにしても、それは充分に可能だ、そのほうがもっといい表現ができるかもしれない、と浅利さんは言われた。 とすれば芸術は、そういう時に信じがたいほどの勇気ある客観的な人生の理解を示すものになる。
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