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現実の重みに打ちのめされるという実感は、自分が不幸に見舞われる場合には誰にでもよくわかる。私も小さなことにすぐへこたれ深刻になるのだが、昨今の日本では他人の話を聞いただけで衝撃を受けるなどということはほとんどなくなってしまった。 しかし地球上の多くの土地では、まだまだどぎもを抜かれるようなことがある。先日何回目かに訪れた南米では、アマゾンの源流近くまで入ったので、全長六千三百キロというアマゾン河の大きさを実感した。川幅は一番小さい支流でも一〜四キロ、最大で十キロにも及び、増水期に冠水して川幅が広がると、最大で五十キロにもなる、という。 しかし何より私が心を動かされるのは、やはり人々の生き方であり、その表情である。 アマゾン河中流のマナウスの郊外で、アントニオ・アレイシオ・コロニーと呼ばれるハンセン病患者だった人たちの老人ホームを訪れた時のことである。「だった」というのはハンセン病は今では簡単に治る病気だから、彼らは厳密な意味でもう病人ではないのである。一九四〇年代に治療法が発見され、一九八○年代にMDT(複合化学療法)と呼ばれる特効薬ができてからは、ハンセン病は何の痕跡も残さず、きれいに治る病気になった。しかしそれ以前の患者たちは、もう既に体のあちこちに第二次的災害として変形が残ってしまっていたから悲惨なのである。今私が働いている日本財団は、一九七五年以来全世界のらい治療のために約二百億円近くを使って患者さんたちに薬を配り続けて来ていて、数年のうちに終息宣言ができるだろう、というところまで漕ぎつげた。しかし世界中にいる旧患者たちのこうした後遺症を形成外科的に治してあげることはむずかしい仕事になる。 その老人ホームにいた人たちも、七割は左右の指をすべて失って、掌だけになった手は棒杖のように見えた。鼻がほとんど欠けてしまった人も眼の見えない人もいる。私たちの同行者の中にはカメラマンやテレビ関係者もいたから、どうしても本能として彼らはこうした病状をはっきり残している患者さんたちを撮影してしまう。私ははらはらしながら、顔では気がつかないふりをして笑っていた。すると通訳の人が「中に怒っている人もいますから」と私に囁いた。 怒って当然であった。私が元患者でも不愉快な顔をしただろう。しかしその時私は病室の入り口に近いベッドにおっとりと坐っている一人の男性患者のベッドのすそに腰を下ろしていた。病人を見舞う時には、その人の目線と同じ高さまで自分の視線を揃えろとどこかで読んだからであった。 その人は九十六歳、そこに長年滞在している二十五人ほどの老人の中でも最長老であった。シーツでよく見えなかったが、爪先も欠損しているせいか、年のせいか、彼は立つことも不可能なのだと説明があった。 「でもこの方は歌がうまいんですよ」 その人の顔は頬にふくよかな肉付きさえ感じられ、表情にはたった今楽しいことがあった直後のような微笑があった。 「歌を歌っていただけますか?」 と私は通訳を通して頼んだ。ほんの一瞬はずかしそうにためらった後で、彼は歌い始めた。もちろん私にはポルトガル語はわからない。しかしそれはイタリア民謡のように聞こえた。そしてその勘は当たっていた。通訳の人は、私の耳元で、遠慮がちに、そしてやや遅れ気味に歌詞の一部を訳した。 「太陽は輝いて躍り、涼風は木陰を吹いて通り過ぎる。オレンジの花はかぐわしく香り……そんなような内容ですね。昔のことを思い出しておられるんでしょうね」 声も九十六歳の声ではなかった。 彼は靴屋であった。その年では、妻はもちろん息子も娘ももう他界していないのかもしれない。そして彼自身は、立つこともできず、指さえも失って、ということは、自分で背中を掻いたり、楽器を奏でたりすることさえ不可能になっても、それでも彼は、明るい日差しの春か秋の日に、大きな木の爽やかな陰に楽しげに坐っているように歌ったのであった。その歌の中では、今でも彼には当然妻や子がおり、周囲には親戚の人も友達もにぎやかにいるという感じだった。 家族も友も、今は彼の視界からも、この世からも去って行ってしまったかもしれない。しかしそうした人々が、ひととき彼の周囲にいたということは確実なことなのだ。そしてそのような楽しい人生があったということは、彼の生涯の幸福と成功の証であり、勲章なのである。 不作法な見学者やカメラマンに入られて、怒ることなら誰にでもできる。私にでもできる。しかし自分の外部で何が起ころうと、常に慎ましく、礼儀正しく、かつ楽しげにしているということは、ただならぬ生き方の芸術だ、とこのごろ私は思うようになったのである。
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