|
錫鉱山が築いた町 地元の人は、マレーシアの首都クアラルンプールをKLと呼ぶ。今回のマレーシア国訪問は、正味四十八時間の短い期間だったが、マレー半島西海岸のKLからマラッカヘの旅で、「マレーシア国とはなんぞや」を地理的には半分くらいカバーしたことになる。これに半島中央部を縦断する山脈の反対側の南シナ海に面する東海岸とボルネオ島北西部のサバ、サラワクの二州が加わらないと、オール・マレーシア紀行は完結しない。だが短かったとはいえ人口の大部分は西海岸に集中しており、この二つの都は、マレーシアを語るのに欠かせない情報のあらましを提供してくれる。 クアラルンプールとは、マレー語で、泥んこの川の合流点という意味だ。KLはクラン川とゴンバック川の合流する地域に位置しているが、この二つの川はその名のとおりなるほど赤茶色の水をたたえている。激しい熱帯性の降雨が土地にしみ込み、鉱物質を溶かし去り、酸化鉄だけが残ったため、土は赤か黄色になる。それが川に注ぐのである。 仕事のついでに日本から同行してくれた、マレーシア人の経済学者ラオ(劉)さんの先祖である中国の移民たちが、この町を築いたのだという。百三十年ほど前、八千七人の中国人が、錫の鉱床を探すためマラッカ海峡からクラン川をさかのぼり、ゴンバック川との合流点で上陸、そこで巨大な錫鉱脈を発見したのがこの町の起源である。探検隊は暑さとマラリアで、生き残りはわずか数人しかいなかったという伝説もある。 「僕は三代目のマレーシア人だけど、福建から祖父がやってきたのは、ずっと後でクアラルンプールの錫鉱山とゴム園が繁栄し、マレー半島に高度経済成長の起こった英国統治下の二十世紀初めです。祖父は会計士だった」とラオさんはいう。 ラオさんの解説によると、そのころ、マレーシアの人口構成に大変化が起こったのだという。錫とゴムがもたらした経済の高度成長で、絶対的労働者不足が発生した。この国の先住民であるマレー人は、主にコメを作る零細自営農民で、錫の採鉱やゴム農園の栽培に労働力を提供する経済的理由はなかった。そこで十九世紀末から、中国南部から錫鉱山に大量の労働者が移住、さらに二十世紀初頭には英国人経営のゴム園に南インドから、タミール人労働者が移民としてやってきた。そしてこの地に商業と貿易が発展した。それが今日の首都KLなのだが、当時は、この町は中国人が圧倒的に多く、次いでインド人、そしてマレー人はマイノリティだった。 ラオさんは「マレーシアは、三つの原色をちりばめたモザイク国家です」と定義する。人口二千万人のうちマレー系六二%、中国系二九%、インド系が八%を占める。その原型はクアラルンプールの都市の形成過程で作られた。マレー系はイスラム教徒であり、豚と酒は口にしない。名前はファーストネームだけである。この国に一九八一年以来、国父として君臨するマハティール首相の正式な呼称は「DATO SERI(称号)、DR(医師)、MAHATIR(本人の名前)、BIN(息子)、MOHAMAD(父親の名前)」と表したらしい。だが要するに名前は、マハティールなのだ。 職業が米作農民か漁師、あるいは中央政府の高級官僚なら、まずマレー人と思えば間違いない。中国人は商業や鉱工業にたずさわる人が多く、この国の市場経済の実権を握っている。宗教は仏教、儒教、道教、インド系は八○%以上がヒンズー教徒だ。多民族、多宗教、多言語の複合社会がひとつになることの政治的難しさが、この国には存在する。
ザイス国家のTV広告 ホテルの部屋で見たTVもマレー語、中国語、英語と多言語チャンネルだ。英語チャンネルをまわしたら、アップビートのコマーシャルソングが流れてきた。画面では、ソンコクという丸い弁当箱のような帽子をかぶったマレー人、中国人、頭にターバンを巻いたインド人など、この国のあらゆる人種がそれぞれの民族衣装を着けて手をつなぎ、なにやらにこやかに合唱している。耳をすます。 「ALL TOGETHER,MALAYSIAN,YOU CAN BE A STAR(私たちはみんなマレーシア人。だれだって有名人になれる)」と歌っているではないか。いったいこのコマーシャルソングのスポンサーは、どこの会社なのか、歌手や俳優を募集する芸能人養成学校なのか。それとも、清涼飲料かトイレタリー商品を手広く市場開拓している多国籍企業の協賛広告なのか。 だが、それにしては、ちょっと仕掛けが大げさ過ぎる。後刻、ラオさんにそのことを話したら、「あれは、政府の広報番組です。同じような趣旨の街頭行進もやっている」というのだ。 「君たちはみんな機会の平等をもつ日本人である」などという広告は日本には、まず皆無である。だがこの国を訪れて、国民と民族とは異なる概念であることを改めて思い知らされたのである。 言われてみれば当たり前のことだが、マレー人とマレーシア人とは同じではない。マレー人はマレーシア人だが逆は真ならず。マレーシア人がマレー人であるとは限らない。マレーシア人は、マレーシアに生まれ、現に市民権をもつこの国の国民であり、マレー人は、マレー語を習慣的に話し、マレーのアダト(習慣)に根ざす文化に従い、イスラム教を信仰する人と定義されているのだ。 複合民族国家が一枚岩になることは、容易ではない。五七年の独立以来、六五年の民族問題と思想の対立によるシンガポールの連邦からの離脱、六九年の反中国系市民感情がきっかけとなった暴動など、一つの政治単位の中で、隣り合わせに生活していながら、お互いに混じり合えない社会秩序をこの国は内包している。そう考えると「私たちは、みんなマレーシア人」と政府がTVで自明のことを強調しなくてはならないわけも納得がいく。 「YOU CAN BE A STAR」の「STAR」も、「有名人」ではなく、「成功者」とか「国の主役」と翻訳すべきところだろう。 昨年七月のタイ・バーツの暴落をきっかけに、アジア経済の奇跡は一転してアジア経済危機に変容したが、過去二十年間のマレーシアの高度経済成長は、多民族間の交流を促進し、生活水準の着実な上昇という国民の実感が、自分はマレーシア国民であるという国への帰属意識を徐々にではあるが高めてきた。経済成長こそが国民融合の有力な手段だったのであり、その挫折は、指導者マハティール氏にとってはなんとしても痛い。 アジア経済の挫折は、ジョージ・ソロス氏のような国際投機マフィアの仕組んだワナだと考えるマハティール氏は「過去二十年、個よりも全体を重視するアジア的価値観をもとに営々として築き上げてきたアジアの経済成長。それが投機家たちによって一夜にして崩された。そういう投機家を個人の自由だとして放置している欧米の価値観は納得しがたい。自国には貧しい人がたくさんいるのに、それも個人の自由だといって知らん顔している」と非難した。 その気持ちほ現地に行った者でないとわからない。経済をテコに多民族の融和と生活の向上をめざすこの国の指導者ならではの発言ではないか。
英国は遠くなりにけリ ラオさんとKL市内見物に出かける。名所旧蹟数あるなかに、高さで勝負をめざす二つの建造物が背伸びをしている。そのひとつがペトロナス・タワーズだ。八十八階建てのツインタワーで、上階に行くほど細くなり、トウモロコシが二本立っているように見える。九メートの尖塔がついており、そのぶんだけ世界一の高さ記録をもつシカゴのシアーズ・タワーを追い抜いた。 この国の人々の高さ志向は大変旺盛で、もうひとつ世界一高いものがある。それは九十九メートのムルデカ(独立)広場にある旗ザオだ。町の中心にあり、観光バスの必ず訪れる名所だ。五七年八月三十一日、マレー半島が英国から独立し、連邦国家を作った記念の広場である。「八月三十一日の午前零時、ユニオンジャックを下ろし、ここにマレーの国旗をかかげる」と、独立を記念する言葉が、英文で刻まれている。だが、よくよく見ると、午前零時を示す「MIDNIGNT」が、どうしたわけか「MIGNIGNT」と書かれていたのだ。 KLに生まれ育ち、この広場から目と鼻の先のマラヤ大学卒のエリートであるラオさんは、これにはちょっとあわてた様子だった。 「いや、今まで気がつきませんでした。英語をマレー語の発音のままスペルを書いてしまったのだと思います。こんなこと、マレー人にはよくあること。だれも気がつかない、だから独立以来だれも直さないんだ。たとえば英語のTENNISは、ローマ字表示のマレー語ではTENISと書く。それと同じでしょう」と弁明に努める。だが、多言語国家マレーシア人の英語はもともとおおざっぱで、その英語力も年々低下しているという説もあるという。 出世するには英語の筆記テストで高点をとることが必須条件だったマレー半島の英国植民地時代。でも、もはや英国は遠くなりにけりだ。「D」と「G」の違いはそれを物語っているのだろう。
|
|
|
|