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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: マレーシアの48時間(上) 「マラッカ王国」跡を訪ねる  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/05/19  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  歴史の古い“若い国”
 マレーシアとはどんな国か。それをひと言で語れといわれると難しい。まず国の大きさなのだが、日本の九〇%の広さがある。国が、海を五百キロも隔てて、マレー半島南部の西マレーシアとポルネオ島北部の東マレーシアに二分されている。マレー半島の先端には、真珠のように小さな島が付属しており、南シナ海に面するポルネオ島には、マレーシアの中に区域が飛び地のように存在している。シンガポールとブルネイだ。もともと一緒に連邦を作るはずだったが、石油リッチのブルネイは“縁談”を断り、シンガポールは、人種問題もあって結婚後二年で“離婚”した。
 一九六三年建国のマレーシアは、こうした地理的な位置や、誕生のいきさつが、いささかややこしいだけでなく、若い国なのに歴史は古く、栄枯盛衰、紆余曲折を経ている。しかもさまざまな民族・文化・宗教があり、複雑な国である。二千万人の人口は、マレー系六〇%、中国系三〇%、インド系八%からなっており、複合民族国家・立憲君主制マレーシア連邦を形成している。
 一九九七年十一月、日本財団が、マラヤ大学に設置した中央アジア三カ国(ウズベキスタン、キルギスタン、カザフスタン)のための経済開発研修講座の開会式に出席した。ついでというのもなんだが、わずかな時間を利用して、マレーシアとはいかなる国か、その寸描に挑戦したのである。旅の順路はKL(クアラルンプール、英語が共用語の現地の人々はそう呼んでいる)からマラッカヘなのだが、話の順序としては、歴史の古いマラッカから始めるほうがわかりやすい。
 KLから南北縦貫高速道で、二時間バスに揺られて海峡に向かい、その行き止まりが古都マラッカである。マレー半島が世界史の舞台に登場したのは十五世紀、スマトラの貴族パルナスワラが、この地にマラッカ王国を建国したからだ。
「マレー半島の背中の部分は、山と深いジャングルですからね。ほとんど通過できない壁ですよ。だから、この国の町や村は、川の合流点や河口にできた。王が支配するのは、土地ではなく、川や海だった」
 同行のマレーシア人の経済学者、ラオさんがそう教えてくれた。
 ラオさんのいうこの半島の王による河口や海の支配の原点が、マラッカなのである。マラッカはマレー半島に誕生した最初の高い文化と繁栄を謳歌した王国であった。マレー半島の歴史はこのマラッカから始まったといってもよい。
「いうなれば、日本の奈良や京都のようなものです」とラオさん。ラオさんとの会話は英語ではなく、彼の流暢な日本語である。この人は中国系マレーシア人。三代目である。マラヤ大学を卒業してから、東京工大に留学した経済学博士である。在日十年、マレー語と中国語会話はおてのものだが、英語でも日本語でも論文が書ける。祖父が福建省から移民した一族で、LAU SIM YEEがマレー語名だが、福建語で書くと劉心義だという。だから漢字もいっこうに苦にならない。
 小学生のころから、KLから遠足でマラッカに何回も来たことがあるというラオさん。前述のマラヤ大学の経済開発講座の立案者であり、私の仕事仲間なのだが、観光の案内人としては、これ以上の贅沢はない。
 マラッカには、私の数えた限りでは、少なくとも七つの異なる文化を象徴する建物がある。
 1)サーモンピンク色のマレーシア最古のプロテスタント教会。オランダから取り寄せたレンガで造られている
 2)セントポールの丘と呼ばれるところはポルトガル人の造った礼拝堂がある。オランダ人が壊したとかで半分は崩れ落ちている。だから「元カトリック教会」といったほうが正確かもしれない。大理石でできたフランシスコ・ザビエルの像がマラッカ海峡に向かって立っていた
 3)マレーシア最古の中国寺院もある。「フーテン寺」という変テコな名前の寺だが、竜や麒麟の装飾をほどこした金ピカの瓦屋根と朱色の壁で一目で中国寺とわかる。正面に、一四〇六年、明の鄭和提督の訪問記念の碑文があった。
 4)回教寺院もある。百五十年前に建てられた比較的新しい建築物だが、スマトラ様式とのことだ。丸いドームはおなじみのイスラム寺院だが、どこがスマトラなのか、スマトラに行ったことがないので識別の仕様がない
 5)タマネギ型のドームをもつ独立記念館。元は植民地時代の西洋人たちのクラブである。赤レンガ造りで東京駅丸の内のミニチュアのような建築だが、サマセット・モームの傑作短編小説「ジャングルの足跡」のネタは、ここのクラブで仕入れたのだという
 6)かつてのポルトガル要塞の跡、サンチャゴ砦も観光コースだ。一五一一年、ポルトガルのマラッカ王国占領で造られた石の城だ。十九世紀初頭、英国軍によって破壊されたという。

マレーシアの“伊勢神宮”
 十五世紀初めに、この地にマレー王朝が興り、明朝中国、それにインドと西アジアのイスラム世界との接触が始まる。その後大航海時代の到来で、ヨーロッパが東洋の富を求めて続々とやって来た。十六世紀ポルトガルの植民地にされたころには東南アジア最大の貿易港として栄えた。十七世紀にはオランダの支配下に、そして一八二四年にはオランダはスマトラに去りイギリスに割譲された。この歴史的いきさつのすべてがラオさんの仕組んだ“建造物見学ツアー”に含まれていたではないか。
「でも、マレー式建築がないね。日本と同じで、木造だから戦禍にあって残っていないのか」と私。ラオさんの答は、YESでありかつNOでもあった。話はちょっとややこしいのだが、十六世紀初頭まではマラッカ王国のスルタンの、マレーの建築文化の粋を集めた王宮があったという。そのころの王朝史によれば世界中のどの王宮よりもすばらしかったそうだが、ポルトガル人が王宮を破壊し、その礎石を使って教会を造ってしまったというのだ(それが2)の教会にあたる)。一九八五年、マハティール首相によって、伝記の記述に忠実に従って木造の壮大な宮殿が復元された。それがマラッカの歴史的建物の七番目の類型である、スルタンの宮殿博物館であった。
 二ドルの入場料を払って宮殿に上がる。マレー式は靴を脱ぐ。そこが中国やインドと違うところだ。三階建ての総木造建築、冷房はないが意外と涼しい。初代の王がこの地に王都を建設したいきさつを表現したジオラマや、明の使者一行と会見する王の等身大の人形などが陳列されている。五代目の王か、夢枕に預言者が現れ、そのお告げと寸分違わぬ巨大な船が入港したことから、イスラム教に帰依したとも書かれていた。
「ここは、日本式にいうなら明治神宮です」とラオさん。「いや。伊勢神宮でしょ」、「そう、そう、それです」と再びラオさん。日本古来の木造建築である伊勢神宮は、昔から二十年に一度、必ず新しい木材で、そっくり同じものを建て替えている??といったらなかなか信じてくれなかった。「昼めし、どこで食いますか。あなたは理屈好きだからニョニャ料理にしましょう」という。

ニョニャ料理とは?
 連れていかれたところは、ローマ字でオレ・サヤンと読める看板があり、その下に中国語で「親切餐館」と書かれている。安いが結構うまい。鶏のカレー、キャベツいため、青菜(丹コンという茎が中空の菜っ葉で美味。ベトナムで食べたことがある)、牛肉いため、チャーハン、そして豆腐とコンニャクのスープ。中国のようなマレーのような、そしてインドのようなちょっと国籍不明の料理だ。
 いぶかる私に、「この料理の概念は、そもそも……」と彼は料理の由来を披露したのである。「ニョニャはマレー語でMIXという意味です。十五世紀マラッカで生まれた国際レシピー(料理法)です。あのころ、明がやってきてマラッカのスルタンを王に封じた。そのとき、土産品? として飛び切りの美女を大勢連れて来た。大勢の王国の家臣が結婚を申し込んだ。そこに生れたハーフで、女の子をニョニャというんです」と。
 メニューの中身は限りなく中国に近い。しかし食事作法としては通常ハシは使わない。手かスプーンで食べる。マレー人の亭主の顔をたてるためだったともいう。「やっぱり、昔のマラッカも、家では女権が強かったようです」とラオさんは解説する。帰路、再びポルトガルの砦に上る。「晴れた日には、スマトラが見える」と聞いたからである。インドネシアの山火事によるヘイズ(スモッグ)のせいか、それらしきものは影も形もなかった。マラッカ海峡越しにスマトラまで九十キロ。もともと肉眼では無理で、かつがれたのかもしれない。
 ここから対岸のスマトラ島まで、世界最長の橋をかける計画があるとのことだ。一九九七年六月、まずマハティール首相が構想をぶち上げ、インドネシアのスハルト大統領も賛意を表した。連絡橋の名称だけは決まっている。「統一の橋」という。総工費は、七十億ドルはかかるといわれる。この橋に投資する経済的合理性はないだろう。アジア経済危機の嵐の中で、“常夏の白昼夢”に終わったとしても、民俗学的にはご先祖様を共有する両国首脳の歴史的ロマンだと思えば、なにやら楽しげな話ではある。
 



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