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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 夕焼けこやけ?思わぬ災厄を見て…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 174  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/09/15  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   アフリカのブルキナファソの、サマンデニという小さな村の住人たちは、以前はミリという川の傍に住んでいた。しかし村人の多くが、何年間かのうちに次第に眼が見えなくなった。今の村長も盲人である。オンコセルカ症、通称「川の盲目」と呼ばれる病気の結果であった。
 ワタラ・サリアは村の人々が集まる小さな広場の木陰に、ボブウ族らしい緑色の長衣を着て坐っていた。一九五一年生まれというからまだ四十七歳。しかし縮れた髭には白いものが混じっている。そして両眼は白内障そっくりの濁り方で、視力は完全に失われていた。
 彼が初めに体に異変を感じたのは一九六五年というから十四歳の時である。少年時代から、川で始終釣をしていた。川へ入るのは当たり前の日々であった。ブユにもよく刺されて猛烈な痒(かゆ)い目にあっていた。時にひどい頭痛がする時もあった。
 オンコセルカ症は「川辺で繁殖するブユを媒介して感染する寄生虫(フィラリア・回旋糸状虫)病」である。寄生虫は体に入ると皮膚全体を移動しながらミクロフィラリア(幼虫)を生む。この幼虫に対する免疫反応によって皮膚病や失明を引き起こす。
 以下はワタラ・サリアの実感的説明だ。彼の骨と筋肉の間には、やがて鳥の卵くらいのできものができた。そのできものの中に寄生虫がいる。寄生虫には牝と牡がいる。牝がミクロフィラリアを生むのだ。皮膚と筋肉の間にミクロフィラリアが入ると、体全体に流れる。脳にも眼にも入り、眼で死ぬと見えなくなる。ワタラ・サリアの眼は初めスクリーンをかけたようにぼんやりし、三年後の一九六八年には全く見えなくなっていた。
 あまりたくさんの人が視力を失ったので、人々はブユの発生する川の傍の村を棄てて、今の場所に移った。
 今ではオンコセルカは予防できる病気になった。川の水に一定の期間をおいて人間に無害な殺虫剤を流し、人にはアイベルメクチンを一年に一度与える。これはミクロフィラリアに対する効力しかないため、成虫が体内にいる間、十四年くらいは続けて飲まねばならない。薬はメクチザンという商標で、製薬会社が無料で供給している。日本財団は失明抑制と予防のプログラムを実行するため、ヘレン・ケラー財団を通じて、ブルキナファソ、ニジェール、ガーナ、ギニア、マリに対して今まで二百万ドルを出して来た。
 私たちはワタラ・サリアのために歌を歌うことにした。同行の新聞記者や霞が関の官庁の若者たちのうち、誰がノド自慢か聞いておく暇もなかったので「夕焼けこやけの赤トンボ」を歌った。取材だけして何もしないのは、私をも含めたマスコミの無礼で、何かお礼をしたいからだった。ワタラ・サリアは、ラジオもテープ・レコーダーも持っていなかった。電気のない村なのだ。畑で働くこともできない。長い一日をどうして暮らすのか。彼は食い入るように、私たちの合唱を聴いてくれた。
 



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