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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 現代版 巡礼の旅  
コラム名: 私日記  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇一年四月十四日

 三戸浜(三浦半島)で暮らせる。空気には海や植物の生きた香りがする。庭を整備するのに最近は少し心を使うことにした。松は手とお金がかかるので思い切って切り、プロテアと百日紅とドラセナを植えた。どれも丈夫で虫もつきにくく、肥料も要らない。私は明らかに人生の終息に向かう整理をしているのだが、この作業がまたなかなか楽しい。

 

四月十五日

 新国立劇場で、韓国のオペラ『黄眞伊』を見る。黄眞伊は十六世紀、中宋の官妓(封建時代には官庁に属していた妓生)である。美貌の女性だったが、妾の子として生れたとして差別を受けるよりは、封建社会から逃れてより自由に生きることのできる妓生になることを選んだ。書、歌、舞にも優れていたので、哲学者、高僧、詩人とそれぞれに親しくなる。

 哲学者は読んでいた本を捨てて黄眞伊を抱き、高僧もついに黄眞伊を愛して破戒坊主になる。詩人は三年の期限を切って彼女と暮らし、三年後には別れて行く。共に彼女の上に濃密な人生を残して去った人々であった。演出もおもしろいし、黄眞伊役のイ・ジョンエも快い存在感のあるいい歌い手である。幕間にKBS(韓国放送公社)のインタビューに答えた。

  

四月十六日

 十八日から、身障者や、盲人や、高齢者を含めた「聖地巡礼」の旅が始まるので、美容院でパーマネントをかけてもらう。毎日の生活の中で、髪に手をかけないためには、髪の手入れをよくしておかないといけないとは、皮肉な話だ。昼間は原稿を書いて夕方、自由が丘でシアトルからいらしたカトム・ユリコさんと食事。

 

四月十七日

 八時三十分、日本財団に出勤。

 七月に移転する新ビルの家具などを決める。私はケチを貫いているので、「高いものはやめてください」と二言目には言う。設計会社も気の毒。絨毯の色は汚れが目立たないもの、力ーテンは色褪せにくいもの、と選んでいくと、初めから泥色ばかりになるから少し自戒しなくてはいけない。ケチは我が家の家族的ビョウキである。しかし私にも美点はあるのだ。買い物を決めるのが早いこと。他の女性はこんなに早くない。

 夜、小杉の義姉と孫の太一来訪。いっしょに食事。太一は、たった半月で見違えるように大人の表情を見せるようになった。小杉の義姉は明日から巡礼に同行するので、そのまま家に泊まる。

 

四月十八日

 八時半、家を出発。

 初めて旅に出る八十二人の全メンバーと顔を合わせる。指導司祭は、毎年付き合ってくださるフランシスコ会の坂谷豊光神父とイエズス会のビハリ神父。

 ビバリ神父は「神が創られたものはすべてすばらしい」という感じの温かい表情。飛行機の中で葡萄酒が出ると、「すばらしい。これを飲むとアタマがよくなる」といたずらっ子のように言われる。私は何を飲んでもアタマが悪くなるような気がする。飛行機の中では腰痛が出るので、時々行儀悪く足を上げてマッサージをした。

 夕方、パリに着き、近くのホテルに入る。夕食には出ず、家から持って来たお握りを食べてごまかす。それでも早寝をするのが私の旅のこつなのだ。

 

四月十九日〜二十日

 ポーランド行きの飛行機は、人数の都合で二手に別れる。私は早立ち組。まだ暗いうちにホテルを出る。ワルシャワで乗り換えて、クラコフヘ。後発のグループは飛行機が出発できず、うんと遅れて気の毒。

 私は原稿の締め切りが迫っているので、クラコフの広場に面した聖マリア教会のミサに出ず、ホテルで原稿を仕上げる。祈りより、仕事を優先するもっとも悪い典型。でも編集者にあまり心配をかけず胃が悪くならないようにするという義務もある。これが私の神さまに対する言い訳。

 まだ、ベルリンの壁がれっきとしてあった頃、聖マリア教会のミサは、昔の日本の三本立ての映画館の中みたいに人でいっぱいで、脆く空間もなく、私たちは脇祭壇のミサが一つ終わるのを待って、割り込むほどだった。

 その頃も、ポーランド人のローマヘの巡礼者は後を絶たなかった。お金がないからバスに二、三日乗ってやってくる。イタリアには、ポーランド人をローマヘ来させる支援団体があると聞いたこともある。

 当時、ヴァチカンのサン・ピエトロの広場では、ポーランド人の巡礼者が、必ず独特の悲しみを込めたすばらしい歌を合唱した。ポーランド人の教皇は、その間いつもロダンの「考える人」のようなポーズを取って表情を抑えておられたが、広場に集まった数千の群衆からは、割れるような拍手がわき上った。それはポーランド人に対する圧倒的な励ましの表現であり、私はその時初めて「連帯」という言葉の意味を実感したように思った。

 しかし、ベルリンの壁が崩れて、自由の風が吹き込んだ後は、ここクラコフでも教会へ行く人は明らかに減った。苦しい時の神頼みなのだろうが、神はそのような人間の忘恩的な愚かささえをもお許しになるだろう。そして自由の中で、人々が幸福になったことを喜んでくださるだろう。しかし、すべての状況は、仮初に与えられたものだ、と私たちとしては思うべきだ。

 今年も、全国モーターボート競走会連合会から二人、交通エコロジー・モビリティ財団から二人、日本財団から四人の「力持ち」の青年たちがボランティアに来てくれている。初めはバスの構造と車椅子の方たちの障害の個性もわからなくてぎこちなかったのだが、それが次第に馴れて心のこもった「介護の玄人」の域に到達して来ている。旅行はただでさえ疲れるものなのに、その上、人の世話をすることは大変なことだ。しかし皆、その覚悟で来てくれている。車椅子の人たちも決して楽ではない。突然馴れない人がお世話をするようになったのだ。しかし誰も感謝と忍耐を知っているから、うまく行っている。しかもお互いに冗談まで言えて、笑って、お酒もいっしょに飲んで、最高。こうしてあちこちに、介護の何であるかを体で知ってくれる人たちが増えると、世の中は、大人の知恵で、和やかに動くはずである。

 川べりの柳が希望の証のような芽を吹いていた。

 

四月二十一日

 暗く寒い。ヤッケを着て、下にもありったけの衣類を重ねている。連翹が雨の中で鮮やかな黄色を輝かせる。

 バスでオシュウェンチム(アウシュヴィッツ)へ。いつもここへ来る時は寒い雨。心が凍える。しかし強制収容所は次第に「名所化」していて、なおさら嫌になる。

 以前ここへ来た時は、イスラエルの大きな国旗を掲げた高校生の一団が、やはり雨の中で頬を涙で濡らしていた。彼らはここで死んだユダヤ人たちの運命を、自分の身近なものとして実感したのだ。しかし日本人にはそうした人生の苦悩も悲しみも染み通らない。

 今度初めて知ったこと(今まで私は何を見ていたのだ)。コルベ神父が他人の身代わりになって餓死刑死した隣の小部屋は、窒息刑が行われた部屋であったということ。小さな穴が開いたディスク状の通気孔はあったのだが、冬は孔がすべて凍りついて、窒息した。初めてのチクロンガスの殺人効力を確かめる実験も、同じ地下棟で行われていたのだ。

 夕方、チェンストコフに入る。雨の中、舗装があるにしても、デコボコの道を車椅子を押すのはボランティアたちにとってもかなりの難行。でもそれが「巡礼」というものだ。 

 

四月二十二日

 朝五時半、ホテルを出て、ヤスナゴラの丘の上にある修道院の「黒いマリアさま」の聖堂のミサに与る。まだ暗いうちから中高生くらいの若者たちがたくさん詰めかけるのにびっくりした。ポーランド人は、生涯に一度は、この「黒いマリアさま」の礼拝に訪れる。

 二百二十キロを走って、ワルシャワヘ到着する前に、コルべ神父の創立された修道会であり、坂谷神父も所属されるニェポカラノフの修道院へ。再び雨の音を聞きながら、ミサ。ワルシャワでは、ホテル・ブリストルに入り、私は再び夕食に同行せず原稿書き。

 

四月二十三日

 ワルシャワの旧市内を散策した。やっと少し町の位置が頭に入ったが、次に来るまでにはまた忘れるだろう。

 クッション屋でゴブラン織りの長いクッションカバーを二枚買った。

 夜の飛行機でミラノヘ。

 

四月二十四日

 ドゥオモ(司教座聖堂)の建物も、毎回眺める度に発見がつきない。というか、初めて見るような気がする。文学でも哲学でも一生かかって読み続けるに値するものは、そう多くはない。そうした巨大芸術を支えている力は、哲学と細かい計算。静かな慎ましい職人芸。長い年月に対する容認。人の一生にできることの限界を知ること、などだろうか。

 バスでニースに向かう。海岸沿いのルートは、高架橋とトンネルの連続。切り通しというものをほとんど作っていない。山のかぶりが極めて浅いところでもトンネルにしている。この技術と国力は大したものだ。トンネルにも高架橋にも、聖人の名前がついている。

 ニースの淘岸のホテルに泊まり、夕食はバスに乗って魚料理屋に行く。朱門は、ここは映画館だった建物だ、とか、いやストリップ小屋だったかな、などと盛んに建物に興味を持っている。生牡蠣は恐ろしく痩せていた。レストランの黒服の主任に、「私は生ものを食べないので、焼いてください」と言ってみたら「うちの牡蠣は大丈夫」と取り合わない。私たちのやりとりを聞いていたモンティローリ富代さんが「フランス人の考えを変えさせることなんかできるもんですか」と嬉しそう。外交は至難の業だ。EUの未来も前途多難。

四月二十五日

 今日はエクス・アン・プロバンスを抜けてアヴィニヨンまで行く。出発前に三百五十年前のバロック風の教会でミサ。途中、ガイドのゲリエ夫人から、ニ?スはニカイアでギリシア人の町だったとか、マルセイユはマッサリアで、つまり塩の売買が盛んだった町だったとかいうことを思い出させてもらう。この辺には一千年も生きているオリーヴの木があるという。そういう土地なら私も住んでみたい、と思うのは、多分非常に素朴な動物的本能と関係があるのだろう。

 エクス・アン・プロバンスではロースト・チキンの昼食を食べただけだが、大きな並木があって落ち着いた温かい感じの町。でも住んでみたら、意地の悪い人がいるだろう、などと考えながら歩く。三浦朱門はしきりに知人の名前を挙げて、彼らがこの町で学究の生活を送ったことを少し羨ましそうに言う。私たち夫婦は若い時から、三人の親たちと同居したので、外国で暮らす機会を避けた。こんな町でプロバンス語の勉強をしながら(フランス語もほとんどできないで、何を言うか、ではあるけれど)暮らすのはどんなに楽しいだろう。

 泊まりはアヴィニヨン。法王庁の跡は前回見ているので、ホテルに入って原稿を書いた。

 

四月二十六日

 朝のうちまた少し原稿を書く。

 ミサの後、カルカソンヌで昼食を食べた。町を囲む塔だらけの城壁は遠くから見ただけだが、舞台の大道具のようだ。

 夕食の頃、ルルドに着く。ピレネー山脈の麓に当たるこの土地は、いつも寒く、よく雨が降る。

 一八五八年、貧しい家庭に生まれ、羊の番をしていたベルナデッタ・スピルーという十四歳の少女に聖母マリアが総計十八回にわたって現れたのがこのルルドである。もっともベルナデッタは、彼女が会った女性が聖母マリアだとは思っていなかった。ただ彼女の命ずるままに洞窟を掘ると、そこから泉が湧き出した。そしてその見知らぬ女性は、そこに教会を建てるように彼女に命じた。

 当惑した少女は、それを主任司祭に告げた。ベルナデッタの母親同様、主任司祭も少女の途方もない話を全く信じなかった。そして少女のロを封じるために、洞窟に現れる女性がほんとうに教会を建ててほしいなら、自分の身分を明かすように頼んでごらん、と言った。ベルナデッタがその通りにすると、その女性は答えた。

「私は原罪なく宿った者です」

 聖母マリアのみが人間の原罪を受けずに受肉したという神学上の解釈は、その四年前に教皇ピオ九世によって初めて宣言されたのだが、テレビも新聞もない時代の田舎の、まともな教育も受けていない羊飼いの少女がそのようなむずかしい言葉を思いつくわけがない。司祭はそこで初めて、ベルナデッタに姿を現したのは聖母マリアだとわかるのである。

 しかしルルドが有名になるのは、聖母マリアの出現が止んでからも、ここで数多くの奇蹟??多くは病人の突然の快癒??が行われたからである。その目撃者の一人がノーベル医学・生理学賞を受けたアレキシス・カレルである。

 

四月二十七日

 朝五時四十五分、ホテルを出て、洞窟に行く。六時からの第一のミサがこの洞窟の聖堂で私たち日本人のために許されている。もっとも何国人ともわからない二、三百人が集まり、私たちのミサに加わる。世界中祭儀は同じなのだから全く違和感はない。祈りのうちにやがて少しずつ星が消え、朝の光が満ちてきた。

 町中に、病人がいる。ボランティアの男たちは、服の上にいつでも担架を搬送できるようにハーネス(背負い革)をつけている。今は担送もめったにないだろうが、それらは、彼らの誇りと任務を表している。

 これから沐浴や聖体行列が一日中ある。これらは毎日行われているのである。私はスペインに入る前に済まさねばならない原稿を書き続ける。校正刷りの返信を待つ時間が要るので、早くしなければならない。それと、ルルドには六月初めもう一度来るので、仕残したことは万事その時に、と甘く考えている。

 夜、蝋燭行列。数千人、時には万を越す人たちが、誰でもが歌える『ルルドの聖母マリア』の歌を歌う。今年は私たちの聖歌隊がしっかりしているので、大聖堂前の放送席に入れてもらうことができ、日本語の歌詞が一番先に流れて来た。『インターナショナル』の歌よりたくさんの人が知っているはずだ。

 

四月二十八日

 今日からスペインのバスが来ている。運転手さんの一人はヘスス(イエス)という名である。長い一日の行程に出発する前に、一人で十字を切っている。「ご加護を!」ということだろう。プエルテ・デ・サンポルトで峠の国境を越える。

 ガイドは、これからのスペインの地方がどれだけおいしい葡萄酒やオリーヴの産地かということを無限に話してくれる。まるで食通旅行のようだ。

 まずハビエルヘ。この土地のホテルで食べた昼食では、葡萄酒よりもコゴージョという小さな芽サラダ菜に感激する。

 フランシスコ・ザビエルの家族が住んでいた小さなお城は暗く、階段は急で、部屋はまるで監獄のようだ。車椅子の人は、青年たちがおぶって屋上まで出てくれた。フランシスコ・ザビエルはどんなに住みにくかったろう。今の私たちが住むプレハブ住宅は現世の天国だ、と皆で笑う。

 今夜はパンプローナ泊まり。

 

四月二十九日

 フランスを出る時は四本だったサンチァゴ・デ・コンポステラ詣での巡礼路は、やがてナバラの道とアラゴンの道との二本になる。その二本が一本の道となるのがプエンテ・デ・ラ・レイナ(王妃の橋)、十二世紀の橋である。雨の中を歩いて、足の裏に歴史をやわらかく、温かく感じながら渡った。

 やがてサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ(敷石のドミンゴ)に着いた。小さな町だが巡礼の客で溢れている。修道士ドミンゴは来る日も来る日も泥濘に足を取られる巡礼者たちのために一人で敷石を敷き続けた。その功績によって、死後聖人に列せられた。今でもヨーロッパの土木関係者たちの中には、ドミンゴという洗礼名を名のる人も多い。

 ブルゴスに泊まる。

 

四月三十日〜五月二日

 私の通俗的な悩みは、果たしてスペインに入ると、ファックスが送りにくくなったことである。通じない。高い。国営ホテルが、原稿用紙一枚の送信料に千九百円取ると言う。ケチな私は、原稿送付を止めようかと思う。友人も「送らない方が安くつくと思う」と同感してくれる。ところが神のご加護があった!レオンで昼食をとった国営ホテルでは、一枚百円以下で送ってくれたのだ。「奇蹟だ!」と、信仰の薄い私は思う(もう少し他のことに感動したらどうか)。

 バスはしばしば、沿道の数百キロを今でも徒歩や自転車で巡礼している人を追い越す。彼らの荷物は重く、道は長い。昔の巡礼者は、帆立貝を目印につけ、杖に瓢箪を水筒としてつけていた。雨用の合羽は寒さをふせいではくれない。足は泥濘に疲れ果てて腫れ上がっていた。途中で死ぬ人も少なくなかった。

 私たちはスペイン領だけでも九百キロを、快適なバスの柔らかいシートで、時には居眠りしながらレオンを経由、サンチァゴ・デ・コンポステラに近付く。ここはもうヨーロッパの果て、スペインではガリシア地方。言葉はガリシア方言。もう五十キロも西へ走れば大西洋に落っこちる。

 五月二日正午、サンチァゴ・デ・コンポステラの司教座聖堂で、私たちは感謝のミサを立てた。ボランティアをしてくれた人たちにとっては、ずっしりと重い旅だったろう。しかし、やり遂げたという手応えを与えてくれたのは、障害者の存在だった。

 最後の一日、恩情的に一台の車椅子を押す係としての栄誉を与えられたのは、年の上の方から言うと三浦朱門、南蓁誼氏、鷲田小彌太教授の三人である。この三人は、道中、車椅子を押すより「口車」を押していた、と評する人もいたが、なくてはならない知的会話の発信者たちであった。

 お別れ会の席で、私が「何より無事でよかった」と喜んだ数分後に、北海道から参加したYさんの車椅子が後ろに転倒して、Yさんは後頭部を打ち、数秒間意識を失った。Yさんの車椅子は室内専用のもので、旅の初めから三浦朱門は「あれは危ないし、押すのが大変で問題だよ」と言っていたものである。つまり室内ばきのスリッパで、登山に出て来たようなものであった。

 現地ガイドと、日本財団の前田さんと私とで、公立の救急病院に行った。ずいぶん待たされはしたけれど、CTスキャンを撮ってくれて、フィルムも二枚、頭蓋内には異常がない、という診断書も長々と書いてくれて、しかも無料であった。

 かつての巡礼者たちを、沿道の人々はさまざまな態度で扱った。巡礼者を戸口から追い払った人も、巡礼者から盗んだ人も、巡礼者に恋をした娘もいた。巡礼者を手厚く遇した人々は実に数多かった。その人たちの末裔がまだ、スペイン、ガリシア地方の政府にも病院にもいた、という感じであった。明け方近く、私たちは明るい気持ちでホテルに戻った。他の二人の日本財団の職員と三浦朱門が、ホテルのロビーで起きて待っていた。
 

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