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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: アンバサダー・ホテルの最後の日々  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1997/05/06  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/06  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   ペルーの日本大使公邸人質事件は、長い悪夢であった。去年の十二月十七日から、四月二十二日の解決の日まで、(わざわざ他人の例を引くのも却って不自然なので)私は自分の生活でその拘禁の月日の長さを計ってみたことがあった。その間私はたくさんの仕事をした。原稿も書き、海外に三回の出張をし、勤めている財団が訴えていた運輸省との和解を果たし、昨年骨折をした後の足の機能をほぼ完全に治し、夫と数年ぶりに温泉に行き、畑にたくさんの花や野菜の種を蒔いた。それだけの時間、ペルーの日本大使公邸に閉じ込められていた人々はいかなる意味を持つ行動もできずに、家族とも遠ざけられて、無為な月日を送っていたのである。
 しかし今、その当時のことを述べられるのは「当事者」だけだという思いも深くする。以前から私は、伝記的な歴史小説というものを体質的に受けつけなかった。時代小説は大好きであった。初めから作者が産んだ虚構の主人公が活躍する話なのだから、楽しんで読める。しかし信長がこう言った。ヒトラーはこう考えていた。川端康成はこういう性格だった。すべてこの手の小説を読むと、「反論のできる当人がいなくなった後で、そんなことを他人が言っていいのか」と思うのである。そして私は世間の男たちが、歴史小説の内容を簡単に信じ、それを指針としたりすることにいつも驚きを感じていたのである。
 歴史小説に登場する主人公が今生きていたら、むしろ間違いなく「私はそうじゃありませんよ」と言うだろう。まだ近い過去に起きたこの事件についても、当事者が取った行動の隠れた部分も真相も知らずに、部外者が何かを論評することほど無責任なことはない。
 しかも事件の真相は、事件に係わった人の数だけあるだろう。なぜなら、真相は事実だけでなく、実感でもあるからだ。それを思うと、外部の人間には、「あの時、ああすればよかったのだ」とか「こういう解決は人間的でない」とか論評できる権利はいささかもないような気がする。
 テロリスト全員が射殺されたというニュースが伝えられた瞬間から、「ゲリラも人間でしょうに」という言い方が果たして日本人の間で起こった。人間のヒューマニズムなどというものは、無言の実行だけがあって、宣伝はできるだけないのが一番いいと思うのだが、今の時代のヒューマニズムは、そのことによって少しも傷つきもせず、責任もとらず、行動も起こしていない人が、真先に意見を述べる、という形を取ることが多い。
 私は日本以外の国を百以上も歩いた間に、いかに「眼には眼を」という発想が今でもあちこちの風土で生きているかを感じることがあった。紀元前一七〇〇年前後に制定されたと思われるハンムラビ法典以来、今に至るまで「眼には眼を」というのがもっとも納得の行く単純な正義の行使法であった。もちろんそれは「一つの目をやられた」場合、報復する相手に「一つの目とついでに一本の手も切り落とす」ことがないように、限定して復讐を行え、という知恵でもあった。報復の行為でも、そこに理性と節制が働かねば、報復は限りなくエスカレートするからであった。
 テロリストのトゥパク・アマル側と人質側を繋ぐ交渉の委員に、カトリックのシプリアー二大司教が現れたことに、日本のマスコミは初めかなり違和感を覚えたようであった。赤十字を信じるならわかる。しかしカトリックとは何だ、ということである。
 世界中で、信仰は日本人が思うほど小バカにされてはいない。有名な科学者で信仰を持つ人は実に多い。アメリカの大統領の演説には、キリスト教的な表現が堂々と使われているし、私が今読んでいるカーター元大統領の『生きている信仰』という著作には、家族を中心とした温かいどこにでもありそうな人間の繋がりと彼の信仰が完全に融合した姿が温かく描かれている。彼は大統領であった時も、中立を装うためにキリスト教を棄てたことなど、一度もなかった。
 トゥバク・アマルのメンバーもキリスト教徒、カトリックであった。これは少しも矛盾しないのだろう。このようなことを私が初めて教えられたのは、ベルリンの壁が崩れる以前にポーランドに取材に入った時である。当時のポーランドはまだ完全な社会主義の体制の中にあった。それでも教会はどこも開いていただけではなく、日曜日のミサに出席する信者の数は、自由主義圏の比ではなかった。ミサが行われている日曜日の大聖堂などは、一時期日本の映画館がそうであったように、それこそ「立錐の余地もない」ほど満員であった。中央の大祭壇だけでなく、脇祭壇でもいっせいにミサは立てられていたのだが、そこもいっぱいで跪く空間もなかった。社会主義国家というものに対して私が持っていた典型的な概念は、現実とことごとく食い違っていた。
 当時、共産党員の中にもカトリックがいた。私は彼らの頭の中で、どのように思想が整理されていたのか今もってよくわからない。しかし当時のポーランドでは、党員であることが、現実に出世をすることで、権力を得たり、他の人は買えない物資を手に入れるのに役立ったりするとすれば、彼らがその道を選ぶ気持ちも、私にはよくわかるような気がしたのである。
 しかしその時、ポーランドの一人の司祭は教えてくれた。
「昼間は市役所で、ただ登録だけをするという社会主義的な結婚をした人の中にも、夜、暗くなるとこっそり二人で教会を訪ねて来て、結婚のミサを挙げてくれ、という党員はけっこういるんです」
 教会はそういう場合、どうして「教会か党か、どちらを取るのか」を選ばせる毅然たる態度を取らないのか、という質問を受けたこともある。当時の私に果して答えられただろうか、と思う。今なら私はやや楽に幾つかの返事を用意できる。イエスの好きな言葉の一つは「彼らをそのようにさせておきなさい」という表現だった、と。その言葉によって、神はすべて人間に最後まで自主的な選択を任せようとしておられたことが分かる、と。そしてそれが、神の人に対する限りない信頼と尊敬の現れだった、と。
 もし神が全能なら、すべての人の上に強力な心理の網を投げかけ、罪を犯さないように縛ってやらないのか、という設問に対するこれが答えである。
 私は南米の中にある解放の神学に関して、説明できるほどの知識を持ち合わさない。ただ卑怯にこういう言い方をしようかと思う。解放の神学によって、或る種の人々は、自国の現状を政治的に強力に短時間のうちに打破できると考えた。一方、そうでない人々は緩やかな改革派で、古い伝統的な教会の形態の中にもそれはそれなりに充分な知恵があることを知っており、急激な現状の変化を望まなかった。人間は多かれ少なかれ罅の入った茶碗に似ている、とそういう人々(私もその一人だが)は考える。無理をすると割れてしまう。だから穏やかにやれることだけをやり続けても救済の道には向かっているのだ。
 優柔不断は私の好みでもあった。私は何でも、潔いことより、生温いことに人間的なものを感じる、という癖があった。だからペルーに対しても他の南米の国々に対しても、私の働いている海外邦人宣教者活動援助後援会という小さなNGOの救援組織は、捨てられた乳児に良質のミルクを与え、劣悪な病院の手術室にエアコン用の発電機を備え、寺小屋のような学校を作り、職業につけるように手動のミシンを送るというような仕事をして来た。今私が働いている日本財団も、ペルーで今年までに三十四校の小学校を建てて来た。都会だけではなく、田舎にもである。トゥパク・アマルが貧しい人たちの解放を目的に掲げるとしたら、私たちも(刑務所の待遇改善以外は)同じことを目標に考えてやっていたのだ。
 カトリックの司祭は、「告解」という形で信者から打ち明けられたことを、たとえ自白を迫られて、拒否すれば殺すと言われても明かしてはいけないことになっている。シプリアー二大司教も、さぞかしテロリスト側から、告解とも身の上話ともつかない形で、心境を聞いて来たであろうが、明らかな罪の告白という形で語られた部分は、仮にあったとしてもその内容は永遠に大司教の口から話されることはないはずである。テロリストたちは大司教を通して神にそれを語ったのだから、人間は仲介の機能を利用して知りえたことを利用してはならないのである。
 その際、シプリアー二大司教が、テロリストに法に則った行動をするように、また直接関係のない人質たちをこういう目に遇わせてはならない、と説得したであろうことも推測される。しかし彼らは結果から見てそれに従わなかった。
 テロリスト側は最初から、武装し、法に従うことを拒否していた。フジモリ大統領は話し合いで事を解決すべきだった、犯人の人権はどうなる、という角度からの批判めいた記事が朝日新聞を中心に投書などでもかなり出ているが、彼らは初めから話し合いなどをする気がなく、人権も認めていなかったから、あれほどの重装備で大使公邸を襲ったのである。
 五月四日付けの朝日新聞の「コラム私の見方・悲劇生む『暴力の悪循環』」という題で、萩一晶サンパウロ支局長は次のように書いている。フジモリ大統領がテロとの闘いで二万五千人が犠牲になったと言うが、「その内訳は軍人と警察官が二千人、市民一万人、テロリスト一万人」「『市民』の中には軍に殺された人も含まれ、無実の人が『テロリスト』として殺害される例も多い」「敵も味方も市民も、みんな足した数字をとらえて大統領は『テロの犠牲者』と呼んでいるというのだ。であれば、今回の日本大使公邸人質事件では、人質一人と軍人二人、それにトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の占拠犯十四人全員は、ともにテロ犠牲者の列に加えられなければならない」
 そうはしないだろう、という書きぶりだが、彼らも自らの愚かさの犠牲となった。愚かさだけは誰にも裁けない。この記者は、ペルーでは、国会の過半数を占める与党のカンビオ90でさえ、本部の建物がなく、議員たちは今度の事件についてほとんど知らされていない、と非難する。「政党政治が空洞化し、ばらばらの群衆のうえに、テレビの宣伝効果を知り尽くしたフジモリ大統領がひとり屹立している」とこの記者は感じる。テロは民主主義の敵である。そのテロに対しては、初めからすべて協議した結果を公表するのが建前の民主主義では、とうてい闘えないのである。その点をこの記者は理解していない。
 しかし一方で四月二十八日の朝日新聞は沢村亙記者の極めて人間的な記事を載せていることも忘れてはならない。内容はトゥバク・アマルの若いテロリストたちの横顔である。彼らは素朴な貧しい農村出身の若者で、学校にも行っていなかった。彼らのリーダーのセルパから、二週間くらいで占拠がうまく終わって目的を達したら、ジャングルに戻って報賞金をもらえる、と聞かされていた。彼らはその金でコーヒー園を経営したり、小型バスを買って運転手になるというささやかな夢を持っていた。
 この沢村記者の記事に付け加えて「週刊朝日」5・9〜16号に出た「船橋洋一の世界ブリーフィング」は更に深い陰影を与えてくれる。
「ペルーの人質事件は、真夏に起こり、秋が深まろうとするときに終わった」
 これも私などが完全に失っていた認識である。ペルーで起きた事件は決して真冬のホワイト・クリスマスとハッピー・ニュウイヤーを挟んだ事件ではなかった。それはむしろ「真夏の夜の悪夢」であり、「嵐立ちぬ」で終わったのであった。船橋氏の報道は、若い森育ちのテロリストたちの側面を生き生きと浮かび上がらせる。彼らは生れてこの方、風呂場でお湯のシャワーを浴びるなどという生活をしたことがなかった。シャワーを浴びて見ないかと人質たちに言われ、初めはためらっていた彼らも、浴室を使ってみようか、という気になる。しかし彼らは水だけを出してその冷たさに震え上がったり、熱湯を出して火傷しそうになったりする。その間二挺の機関銃はほうりっぱなしだった。
 また彼らは日本人の人質用に差し入れられたベントーが大好きになった。こんなおいしいものは食べたことがない、と打ち明ける者さえいた。二人の女性テロリストたちは、ベントーを食べては、普段見たこともないテレビのメロドラマを見て動かないので、たちどころに五、六キロ太った。
 こういう報道こそ、私たちの心を動かすものではないか。若いテロリストたちは、人生の最後に「アンバサダー・ホテル」に泊まって、かつて体験したことがないほどのいい暮しを知った。食事もおいしかった。熱いお湯のシャワーの爽快さも知った。せめてそれらの日々があったことを、私はよかったと思う。しかし船橋氏ははっきりと書く。
「テロリストをhumanize(人間味あふれる存在にする)しようとして、また彼らの挽歌として、こうした切れ切れの断片を書いているのではない。
 彼らは全員、殺された。哀れではあるが、自業自得である、『すべての責任は彼らテロリストが負うべきものであり、テロリズムとは悲惨な結果をもたらすものであることを証明した』との米政府声明は正しい」
 事件解決後のシプリアー二大司教は涙と共に語った。
「ギュスティ最高裁判事の死、ペルー軍の関係者の死、それと同じ人間であるMRTAメンバーの死は、我々に深い悲しみをもたらします」
 言葉は短いものだったが、これは大司教の思いをすべて言い尽くしたものだったろう。大司教はすべての死者を平等に悼んだ。大司教は彼らすべてのために祈っただろう。国家の目的のために死んだ軍人の死には、大司教は聖書の中の次の言葉を思い出していたかもしれない。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)テロリストたちのためにも大司教は聖書の言葉を用意したはずである。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)
 シプリアーニ大司教はテレビの中で、ネストール・セルパ・カルトリーニのことを「セニョール・セルパ(セルパさん)」と呼んでいた。二人は同じイタリア系ペルー人だったのだろうか。とにかく大司教は日本人の記者たちのように、「セルパ容疑者」などとは言わなかった。そこには「裁きは神に任せる」ことを基本として確認している宗教者の態度がはっきりと現れていた。
 



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