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「国家とは衰亡もアリ」と知るべし ここ数年、何としてもポーランドに行きたし??の思いがつのっていた。それも数ある世界の国々からの一旅行者ではなく、日本人として、である。なぜ、そんなに日本人にこだわるのか。国というものは、衰亡したり、再生したりすることアリという。この国の過酷な歴史の実例を、平和に慣れ過ぎた“戦後日本国民”として、この目で確かめたかったからである。 二〇〇〇年十月、ジュネーブで、私の勤務する財団と国連との仕事を済ませ、レマン湖と目と鼻の先の市内の本屋に出かけた。私の「渡る世界」で愛用している『LONELY PLANET』の旅行案内書を探しに行ったのだ。ジュネーブで求めた六百ページほどの『POLAND』編を、ミュンヘン乗り換えワルシャワ行きの機中で読みふけった。冒頭に、ポーランド国歌の英訳の一節が出ていた。 Poland has not perished yet As long as we(poles) still live. That which foreign has seized We at swordpoint shall retrieve (LONELY PLANET POLAND編から引用) その国の国歌から説き起こした海外旅行案内書には、初めてお目にかかった。日本語に翻訳すればざっとこんな意味になる。「ポーランドは消滅せず。我々(ポーランド人)が住んでいる限りは。外国軍が占領すれば、我々の剣が必ずやそれを取り戻すからだ」。筆者がポーランド人なればこその旅行ガイドブックだ。 この国は千年の歴史をもつが、地理的にはドイツとロシアに挟まれている。ポーランド史は、激動そのものであった。すべての災厄は、この東西二つの国からやってきた。歴史地図帳をみて、驚いた。この国は千年の間大きくなったり、縮んだり、滅亡したかと思うとまた復活しているのだ。私が訪ねたのはもちろん一九八九年ソ連の軛から離脱、社会主義体制を放棄した、「第三共和制」Republic of polandである。 大統領府に外務次官、マジコウスキー氏を訪問した。この季節にしては暖かい秋晴れの朝だった。ロウ人形と見まがうほど表情を動かさぬオモチャの兵隊風の番兵たちの間をくぐり抜け、官邸に入った。「今朝は珍しくいい天気だ。多分、日本からのお客さんであるあなた方が、もって来てくれたのだろう。このすがすがしい朝は、今日のポーランドの地政的状況を象徴している」。彼はまずそう言ったのである。 「地政的状況?」「そう。その通り。ポーランド史を知ってるか。この国の悲劇の歴史の元凶、東と西、双方の脅威がなくなったんだ。以前は、ソ連、東独、チェコのみが隣国だった。だがこの十年で隣国が増えた。リトアニア、ベラルーズ、ウクライナ、スロバキア、そしてチェコだ。東独は西独に吸収された。ソ連邦崩壊の産物だ。旧東欧諸国の中で国境に変化がなかったのは、ポーランドだけだ」 「周囲の国が分裂してしまった?」 「そうだ。いまや、ポーランドは地政学的には、新しい東欧の中心になった。すべての隣国と善隣外交をやっている。NATOにも加盟し、EU加盟をも視野に入れているのだ」ポーランド史の千年間、この国にとって“厄病神”だったロシアとドイツが突如として変貌した。 「美しい朝」。外務次官の比喩もむべなるかなだ。ポーランド史の概略に触れておこう。ポーランド王国の基礎ができたのは九世紀中頃だが、ハンガリーとリトアニアを合併、ウクライナにも手をのばし十六世紀末には欧州最大の王国となった。だが栄光はここまで。地形からみても、国土の九〇%が海抜三百メート以下の平坦地で国名のPOLEは、農地という意味だ。欧州の東と西を結ぶ交通の要衝でもあり、攻められやすく、守り難い。 島国日本とは正反対の地政的条件なのだ。ロシア、プロシャ、オーストリアによって、三度も国土を分割され、一七九五年以降百年以上も、ポーランドは欧州の地図から消滅した。第一次大戦後、ベルサイユ条約によって共和国として蘇生させてもらったが、一九三九年ドイツ、引き続きソ連の侵入を受け、国土は二分された。第二次大戦でドイツが降伏すると、ソ連による全面占領下に置かれ、一九五二年、ソ連の衛星国「ポーランド人民共和国」となった。そして民族の独立を回復したのは、一九八九年であった。 映画「地下水道」の現場に立つ ポーランドのNGOの事務局長、ピヨートル・コンゼスキー氏が、ワルシャワ市内を案内してくれた。私が持っていたワルシャワのイメージ。「ワルシャワ蜂起」「ワルシャワ条約機構」「ショパンの国際ピアノコンクール」「ワルシャワのユダヤ人」「ワレサの連帯」。硬軟、明暗取り混ぜてざっとそんなところだ。「ワルシャワ条約機構」の調印式の部屋は、大統領府の中にあり、外務次官氏が案内してくれた。この条約はソ連と東欧衛星国との間に締結された対西側集団安全保障の取り決めである。時は移り、ポーランドはいま、ワルシャワ条約の仮想敵国であったNATO(北大西洋条約機構)に加盟しているのだ。 「ワルシャワ蜂起とは、どのあたりで起こったのだい」。ピヨートルに聞いた。「ワルシャワのヴィスワ川の左岸、つまり我々がいま見物している市街のすべてだ」という。「“KANAL”という映画を見たか。アンジェル・ワイダ監督の……」とピヨートル。この映画の日本語名は「地下水道」。私は、たまたま二度も見ていたのだ。「あれがワルシャワ蜂起だろ」と私。一九四四年秋、ワルシャワ市民はドイツの占領軍に対して武装蜂起した。ポーランド国内軍一個小隊はドイツ軍に追われ下水道に逃げこんだ。脱出をはかるも、市内のマンホール上にはドイツ兵が待ちかまえている。下水の終点、ヴィスワ川への出口には、ドイツ軍によって頑丈な鉄棚が。もはや出口なし。悲惨な結末に終わるという筋書きだ。一九五七年の作、カンヌ国際映画祭特別賞を受賞した白黒の映画だ。 私は足元の鉄製のマンホールのフタをじっと見つめた。「シレナ」という名の人魚を型どったワルシャワ市の紋章がついているものもある。臨場感がこみあげてきた。 「君は知ってるか。あの時、ドイツ軍を追撃中のソ連軍はヴィスワ川の対岸まで進攻していたのだ。だが、そこで、二カ月も駐留し、目と鼻の先の対独蜂起を傍観し、ポーランド市民を見殺しにした。その理由を……」。「当時親ソ連の亡命政権を彼らは手中に収めていた。市民の対独蜂起を助ければ、傀儡政権の発言権が弱まるとエゲツない計算をしていたからだ。スターリンはポーランドの衛星国化を計算済みだった」とピヨートル。ワルシャワ蜂起、ソ連が対岸で高みの見物をしていた二カ月の間に、二十万人の市民が殺されたという。 「ワレサの連帯」の末路 旧東欧圏のどこの国に行っても、人々はソ連嫌いだが、ワルシャワ市民のそれは強烈である。「ワルシャワ市内で、一番醜悪な建物と、一番景色のいい場所を教えてやろう」とピヨートルが言う。私の泊ったワルシャワ中央駅前の「ヤン・ソビエスキー(3)世ホテル」と鉄道線路を隔てた反対側に、巨大な建物があった。高さ二百三十メート。スターリンの贈り物だという文化科学宮殿だ。それがワルシャワで一番醜いという。確かに中世の石の芸術の街、ワルシャワにふさわしくない。いかにも大きいだけで無機質ではある。「ところで、一番景色の良いところはどこだ」と私。「あの建物の屋上さ。そこならあの建物が見えないから」、ピヨートルが初めて笑った。 この国は「ワレサの連帯」によって、民族としての独立を再現、「東欧革命」のモデルとなった。だが、それによって労働者の暮らしがよくなったとは言い切れない。ワレサの民族自決と民主主義、それ自体は経済の繁栄をもたらす特効薬ではない。多くの人が失業の不安におびえて暮らしている。ワルシャワで最も豪華なホテルに「マリオット」がある。解放後、オープンしたアメリカ資本のホテルだ。ここでは連夜、パーティーが催される。市場経済の導入でポーランドに投資した米欧企業のビジネスマンたちと、ポーランドの新興企業主たちだ。誰となくこれを「マリオット現象」と呼ぶ。華やかな市場経済の上澄み「マリオット」の舞台をよそにこの国の市場経済の裏方たちである労働者の不満は大きいようだ。 あの連帯のワレサ氏はいまどうしているのか。彼に会って見たかったのだが、その機会がなかった。ワルシャワの知識人たちにその消息を質ねても「ワレサの時代は終わった」という論評が返ってくるのみであった。私がこの国を訪れる数力月前、大統領選があったが、ワレサの得票率はわずか六%だったという。でもソ連共産主義の圧制下「この国のかたち」づくりを先導したワレサの名は、「この国の歴史」に永遠に名をとどめることには変わりはあるまい。
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