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昔、東大の内之浦のロケットの発射場の実験を見せてもらっていた頃、日米の手順の違いというものをよく聞かされた。ずいぶん昔のことなので、細かいところは忘れて不正確になっていると思うのだが、NASA(アメリカ航空宇宙局)と東大の実験との手法上の違いはどこにあるかというと、NASAはマニュアルを作り、誰でもその通りにやればそのポジションが勤まる。しかし日本人は多くの部分をマニュアルなしで才覚でこなしているから代わりがきかない、という点だということだったと記憶する。極端なことを言うと日本人は「××先生、昨日のあの問題、よろしく頼みます」と言えば、それで無事に実験成功に漕ぎつけられるのである。 しかしアメリカはそうではない。手順は暗記するのではなく、書かれた通りにやって行く。だから「昨日のあの問題」などという言い方では済まない。おもしろおかしく焼酎など飲みながらの話の範囲だったが、日本とアメリカとを比べると「NASAは東大の十倍、紙を使っているでしょうな」ということになっていたように記憶する。 今度の金融機関や大蔵省の不祥事、その少し前の厚生省の血液製剤の問題などを考えてみると、改めて日本にはすべてに厳密なマニュアルを作る習慣がなくて、各自の才覚でものを決めてゆく習慣と能力があることが、結局は裏目に出たのかな、と思う。 私は今特殊法人で働いているわけだけれど、ここには一切の隠さねばならない問題というものがない。他社と競争して利潤を上げなければならない営利会社なら、秘密の部分を持っていて当然だ。しかし法人はもちろん、日銀にも大蔵省にも、時間的にいささかの手心を加えて発表を遅らす必要はあっても、一定の時間が経った後は、隠さねばならないことはないはずだ。 不良債権の問題でも、貸付の限度額でも、つまりは、厳密なマニュアルを作っていれば、こうはならなかった部分があるような気がする。ことに銀行業務に明確な調査の手順や規則がないなどということは、アメリカからみると信じられないだらしない運営の仕方だろう。 私自身が、マニュアル型ではない。新聞小説の連載の時だけ、挿絵画家のために小説の舞台になっている家の見取図を書いて渡しておくことはあるが、小説は千枚を超えるものでもすべて頭の中で細部を組み立てておくだけである。 しかしこと組織となったら、すべては記録が必要で、しかもそれをいつでも公開できる体勢になければならない。私たちの財団は、今まで事務的にまたは人間的判断に全く失策がなかったわけではないが、たいていの場合、いつでも詳細な記録を残していたことが、それをいち早く実害のほとんどない軽微な失敗に留めることに繋がり、しかもその経過について世間に公表できる結果になった。 人と世間を舐めて考えてはいけない。人のお金を預かる立場は厳密を要する。だらしなくしたければ、自分のお金を使うという方法がある。
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