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川上に流れる大河 プノンペンから北西に飛行機で四十五分行くと、東南アジア最大の湖、トンレサップ湖がある。長さが百八十キロ、といってもぴんと来ないかもしれないが、新幹線で東京?静岡間の距離である。幅も太いところで五十キロもある。この湖はカンボジアの乾期の水ガメであるだけでなく、雨期には洪水の巨大な受け皿となる。それが、この国をして、稲作を中心とする豊かな農業国たらしめているのだ。 ラオス、カンボジア、ベトナムと、インドシナ半島を縦断するメコンの大河が雨期には大増水し、ふだんはプノンペンで、メコンに注ぐトンレサップ川が、川上のこの湖に五十キロも逆流していく。川は、上(かみ)から、下(しも)に流れる。これは河川が急で短い山国の日本の常識だが、カンボジアでは通用しない。渡る世界の地理学も、時と所によっては逆になる。そういう発見が旅の面白さのひとつとはいえまいか。 この湖の北に、シエムリアップという町がある。アンコール遺跡観光の拠点の町だ。アンコールとは豊饒の水をたたえるトンレサップ湖畔に栄えた王朝の名前である。王たちが建造した都市や寺院を総称して、アンコール遺跡という。そのなかでも十二世紀に三十年かかって造られたヒンズー教のアンコール・ワットと後期に建設された仏教のアンコール・トムが代表作だ。アンコールとはクメール語で王都、ワットは寺院、トムとは巨大という意味である??持参したガイドブックにはそう書かれていた。 私の旅は観光ではなく、その国の人々と話をするのが主たる目的である。シエムリアップの町にやってきたのも、アンコールの遺跡がお目当てではない。「日光に出かけて東照宮を見ないんですか。“日光見ずして結構と言うな”は、一度は東照宮にお参りしなさいという意味ですよ」と、通訳兼ガイドの田中修一さんに軽くたしなめられた。この国の旅行は治安が悪いのでガイドは不可欠だ。アンコール・ワットではさらに武装した兵士が護衛についた。遺跡見学の外国人旅行者をテロリストかち守るためとのことだ。「それもあるけど、遺跡の石を持ち去られないように監視するお目付役でもある」。これは、田中さんの解説だ。 今回のカンボジアの旅のテーマのひとつは、もの静かで敬虔なる仏教信者の農民がなぜ一転してポル・ポトの都市住民虐殺に加担したのか、そしてこれまた小乗仏教の信者である犠牲者たちの多くが、なぜ抵抗もせずに虐殺者のされるがままになり、多くの人が自殺の道を選んだのか??それを知ることでもあった。彼らの信仰の原点である小乗仏教の聖地であり、かつ仏教を生み出したヒンズー教の神話の宇宙が壁画で表現されているアンコール遺跡を見物するのも、何かのヒントになるのではないか。そう思って田中さんの勧めに従うことにしたのだ。 アンコール・ワットの回廊には、石に浮き彫りにした数々の絵巻物がある。そのひとつ「天国と地獄」が圧巻である。地獄の責め苦の彫刻はリアルで壮烈だ。鞭打ち、舌抜き、逆さ吊り、針責めなど三十二種類の拷問による虐殺が表現されている。驚いたことにプノンペンにあるポル・ポトの“虐殺博物館”で見た油絵の拷問図の手口が、これに酷似している。「ポル・ポトは子供のころお寺の学校に通学し、アンコールにも行ったことがある。そしてこの地獄絵から拷問の方法を学んだという説もあります」と田中さん。このような壁画を残したクメール人は、表面は穏やかでも心の奥底には残虐性をもつ民族であるとの説さえもあるというのだ。 もちろん、こうした見方はあくまでひとつの説であり、いささか牽強付会の感なきにしもあらずだ。日本や韓国、中国いやヨーロッパにも子供がひきつけを起こすような地獄絵がざらにあるではないか。というわけで、なぜ、日ごろおとなしい農民仏教徒が、ある日突然、プッツンして残虐非道の同胞虐殺に走ったのかは、結局、解明不能だった。だが、なぜ、上座仏教(小乗仏教)の在家の信者たちが、現世でポル・ポトの弾圧に抵抗もせずに死を選んだのか。そのことはアンコール遺跡に足を踏み入れるうちに、少しわかったような気になったのである。
輪廻思想と自殺 アンコール寺院の彫刻にふんだんに展開されているヒンズー教の輪廻転生と業の哲学と、これをもとに形成された釈迦の小乗仏教の教えに起因するのではないか??そういう仮説に到達したのだ。つまり、前世における業(行為)が、輪廻によって現世を作る。だからいくらあがいても、現世の不幸はどうにもならない。したがって来世を信じて死の道を選ぶという図式である。 それをプノンペンに戻ってから確かめてみたのだ。王宮から近いトンレサップ川のほとりにカンボジア仏教の総本山、ワット・ウナロムがある。そこに一人の日本人僧が住んでいる。渋井修さん(五十歳)である。真言宗の僧侶である渋井さんは一九八九年、二百万人もの虐殺犠牲者の供養をしたいと思い、やってきたという。寺の修理や犠牲者供養の活動をしているうちに、小学生や大学生を対象に日本語教室や植林のような社会事業に手をひろげていった。 渋井さんはいう。「そう、その仮説、おおむね当たっています。基本は業と輪廻転生に起因する」と。 「日本のように大乗仏教というか、形式的な葬式仏教の国では、来世を信じて自殺を選んだという話はあまり多くないです。日本の自殺は自己の存在基盤喪失によるうつ病が原因ですよね」と私。 「日本ではそのとおりです。でも、この国の人々の自殺の背景には小乗仏教の宗教観が色濃くある。殺すより殺されたほうがましだと考える人が多いし、拷問で苦しめられたら来世思想だから自殺する。大乗仏教は、悪には抵抗したほうが成仏できると教えています。そこが大乗と小乗仏教の違いです。釈迦の言葉として本から得た知識をそのまま現実生活にあてはめてしまう小乗仏教は、食物が豊かで、冬というものがない南の国しか育ちません。冬の寒さと飢えに備えて常に行動しなければならない北の生活の中では発展するはずがない。渋井さんはそう言っていた。 ところで渋井さんは小乗仏教の出家であることをやめて、最近、還俗したという。このことは、多くを語らなかったが、この国の仏教のご都合主義的なところに、いやけがさしたらしい。 「殺し屋が将来は坊さんになるといって、ギャング業を続けるかたわら寺院への寄付を続け得度をめざしている」と彼はいう。「坊さんは布施を拒否しません。ワイロでも何でも功徳だと解釈している」ともいう。 そういう俗っぽさはあるものの、殺されること、自殺、そして自然死の三者は同じであるとする来世思想が厳然としてこの国の小乗仏教に存在することだけは動かし難い事実のようだ。 この国の来世思想では、殺されることと、自殺と自然死とは本質的には変わりはないのである。
四十八人の精神科医 四人に一人の割合で不自然な死をとげたあの時代から二十年。中年以上のほとんどの人には、肉親の悲劇が、“心の外傷”として残っている。いつも元気で働いている人々が、あるとき突然放心状態になったりする。仏教は復活し、当時存在さえも否定された出家僧も、最盛期の約半分の四万人に増加した。 “心の癒し”には、仏教だけでなく医学も必要であろう。ポル・ポト時代の知識人刈りで民間の医師も事実上ゼロ人にまで落ち込んだが、僧侶並みの数にまで回復した。しかし、心の外傷を治療する精神科医はいぜんとしてゼロ人のままだった。一九九七年十一月、シエムリアップの町の医療センターでこの国初の精神科医四十八人が誕生した。産みの親はハーバード大医学部の教育プロジェクトである。これに日本財団が資金援助をした。その卒業式に参列すること、それが今回の私のカンボジア旅行の直接の目的であった。 「カンボジア」とか「アンコール」と聞くと、昔読んだフランスの小説家アンドレ・マルローの『王道』を思い出す。一九二〇年代、密林の中でアンコール遺跡が発見され、フランスの若者のインドシナ放浪の旅がブームになった。ヨーロッパを脱出した孤独な行動人がこの地で密林の自然や人間集団と対決する悲劇的な状況をテーマにした小説だ。 意外なことに、今日のプノンペンの裏街にも、マルローの時代と同じように孤独な外国人が結構たむろしている。さらに驚いたのは、そのなかに世捨て人風の日本人が混ざっていたことだ。この種の人々は、一日、三〜五ドルのゲストハウス(安ホテル)に住み、界隈の安食堂が溜まり場であった。そのひとつに「京都レストラン」なるものがあった。メニューにはカツカレー一・六ドル、冷や奴○・七ドル、ソース焼きそば一・六ドル、ニラレバイタメ五千リエルがあった。 フランス人とおぼしき欧州の青年、中年の数人の日本人。ただ呆然としている人、何やらとりとめのない雑談をしている人、この店の書棚から、古本を出して読みふける人、どのタイプも人生の目的を捨て去ったように見える。さながら時計が止まったような光景だ。孤独ではあるがあくまで行動人である「王道」の主人公とはその点が趣を異にしていた。
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