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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ジャガイモとパセリの仲  
コラム名: 私日記 第8回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/08  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  五月十六日
 日本財団に出勤。
 来客は、午前九時半、世界銀行セラゲルティ副総裁。
 十一時、イランイスラム共和国、アリ・マジェディ駐日大使。日本財団が国連難民高等弁務官事務所を通じてアフガン難民に対する百万ドルの支援を行なったことに対するお礼。数年前、イランに流入したクルド難民の医療費を負担した時に、クルド難民に対する支援も依頼されていたもの。誰でも病気になる。病気は同じように苦しい。クルド難民の場合百万ドル出しても、難民の数で割ると、一人当たりわずか五十セントほどの医療費の予算にしかならなかった。恥ずかしいほどの少額だが、それでも出す人がないなら、日本財団でするべきだろう。先天性心臓奇形のある子供には手術も受けさせることもできた。
 お客の合間に執行理事会。昼食は新入社員と一つのテーブルを囲む。
 午後、司法制度改革審議会。
 判事、弁護士、検事などの数を増やして裁判を早く進めるのはいいことだが、数を増やせば質の低下は免れない。するとろくでもない弁護士で裁判を闘わなければならない人も出てくるだろう。
 夜『文學界』の連載「陸影を見ず」が終わったので、文藝春秋出版部の方たちと会食。一つの連載が終わるまで、死ななくてよかった、といつも思う。作品のできは二の次と内心思っている。
 
五月十七日
 午前中、国際長寿センター理事会。
 財団に帰って、雑用。
 
五月十八日〜二十一日
 ひさしぶりで三戸浜の家へ行く。新ジャガを少し掘る。若くてもったいない、というのであらかた残す。新ジャガは、茄でてほんの少しバターで粉ふき薯のように妙めて、その上に庭に生えているパセリを細かく叩いて山のようにかけて食べるのが評判がいい。こんなにパセリを消費するのなら、もっと植えておけばよかった、と思う。ジャガイモとパセリは恋人の仲。
 畑仕事は山のようにあり、私のような半端人足でも、一日外にいてもやる仕事は山のようにあるのに、締め切りがあるので思うに任せない。
 
五月二十二日
 午後、日本財団に出勤。マリからトゥーレ元大統領来訪。ちょっとお茶をこぼされて、「私は軍人上がりなので、そこつで」と細やかなご挨拶。昨年、マリで農業改革会議をした時のことなど話に出た。私はいろいろな方にさまざまな角度から情報を頂くことが大切と思っているので「エチオピアの飢餓はどの程度ひどいのでしょうか」と質問した。いろいろ言葉を選んで話されながら「ほんとうに飢餓がひどいなら、どうしてあんなに軍事に金を出せるか、という声はあります」と言われた。
 アフリカ諸国から委員が出て一九九四年のルワンダの虐殺の調査が行われている、自分もその委員の一人だと言われるので、報告書がおできになったらぜひ拝見したい、と言うと、必ず英語版を送ります、と言ってくださった。
 
五月二十三日
 朝、大分県の平松知事に三十分お目にかかる。その後、日本財団で雑用。
 十二時半過ぎの「やまびこ」で仙台へ。東北経済連合会の講演。終わって友人においしいお鮨をごちそうになってから、満足して列車に乗る。
 
五月二十四日
 朝、日本財団へ。韓国から、金大中大統領夫人・李姫鎬さんも働いておられる「愛の友達運動」の朴英淑総裁と光州を地盤とする国会議員の姜雲太氏とが来訪。
 光州に身体障害者専用の公衆浴場を建ててほしいという非公式の打診があった。私がこの月末に李姫鎬夫人をお訪ねするに当たっての打ち合わせもする。
 午後、入社試験の面接三人。
 その後、報知新聞とNTTのインタビュー。新聞は健康法についてだが、私は運動をすると、それがきっかけで必ず病気になった。だから何もしていない。ただこまめに家の中を歩き廻るだけで、何か特別にご披露するような秘策はない。
 
五月二十五日
 三鷹の消防大学校で講演。
 消防も昔は木造家屋が火で燃えるのを消すという印象で済んだ。しかし今は大変。化学性物質を使った建材から悪い煙は出るし、油やガスの火事もある。人間が倒壊したビルの間に閉じ込められることもあるのだ。その人間を傷つけないようにコンクリートの崩落部分に発破をかける技術もいる。壊したコンクリートにワイヤーを掛けて取り除く玉掛けの技術はもっと大変だ。終わって深大寺でおそばをごちそうになった。
 午後、日本財団に戻り、仕事をして午後四時から、教育改革国民会議。
 夜、息子太郎の妻の暁子さんが来た。
 
五月二十六日
 日本財団で理事会。辞令交付。
 午後、入社試験の面接の後半。近頃の受験者は語学もできるし、有能な人たちなのだろうと思うが、一番なくなったのは、恥じらいと作文能力。自分を売り込むなんてことを日本人がするようになってから、国家も人間もだめになった。アメリカの悪影響。作文も、この上なくつまらない。その人の思想も性格も全く見えない。テレビと漫画の悪影響がよくよく出ている。○×式を止めて、じっくり自分の言葉で語る教育を復活しなければ、この傾向は直らない。しかし○×でなければ、「公平な採点」は当然できない。公平がまかり通って個性は死滅した。
 夜六時半、一足遅れて息子の太郎到着。昨夜電話で「僕、十三キロ痩せたんだけど、心配しないでよね。どこも悪くないんだから」と予告があった。
 夜は、自由が丘で四人で食事。太郎独特のダイエットの方法を聞く。
 「一度、ケーキ屋の前を通ったら震えが来たのよ。僕、菓子なんてそんなに好きじゃないのにさ。それですぐこれは低血糖になっているなと思ったから、ケーキを買って帰って少し食べたんだ」そうだ。
 
五月二十七日〜二十八日
 七月、八月、九月と三カ月間、NHK教育テレビで「現代に生きる聖書」という講座を受け持つことになった。放送前にテキストを作るのだが、そのための原稿に朱を入れた。二十八日にはNHKの昆野さんが校正を取りに来られる。昆野さんは原稿を読み、私はすぐそばのワープロで仕事。
 
五月三十日
 午前十時、日本財団で執行理事会。後辞令交付。
 午後二時から、司法制度改革審議会。
 
五月三十一日
 七時半、家を出て、十時発の飛行機でソウルヘ向かう。
 この韓国訪問は、金大統領夫人・李姫鎬さんのお招きによる。夫人が先般日本語訳『茨の道の向こうに』を出版された時、私は本の帯を書かせて頂いた。金大中氏が獄中にいらっしゃった時、夫を励ますために書かれた辛摯な書簡集である。実によく聖書を読んでおられるし、常に神の存在が温かく家庭を結んでいる。そのことがきっかけで、お目にかかることになったのである。
 我が家はいつも、夫婦で別々に旅行しているのだが、今回は珍しく三浦朱門もいっしょ。三浦はここのところ日韓文化交流会議の仕事をしているので、いつもソウルヘ行く時は仕事だけ。この冬、ソウルで会議があった時、その朝になって悪妻の私はどうしても彼の手袋が見つけられなかった。零下の気温になるだろうに、手袋がないと困るだろうと焦っていると、三浦は「要らないよ。オーバーも要らないくらいだ」という。空港に着くと、そのままホテルに入って、朝から晩まで会議をして、そのまま帰るから、何も要らないのだ、という。その結果、韓国に行っても一度も町を歩いていない。ずっと「欲求不満」がつのっているから、私といっしょに行って遊ぼうという算段。
 ソウルのホテルに着いたのは二時ころ、三時から文化観光省に行き、朴智元長官にお会いした。ここまでは三浦も同行。というよりここでは三浦の方が、日韓文化交流会議の座長として知られている。
 韓国式の桟の障子がはまった接客室は韓国文化が感じられて温かい感じである。日本財団の関連財団である日本音楽財団が難聴児たちの太鼓の公演を韓国で企画している。韓国の難聴児にも、よろしければその時指導員が太鼓の叩き方の手ほどきをいたします、ともお伝えして来た。皆たいへん好意的。
 「愛の友達運動」の朴英淑総裁に、私だけ「宮廷料理」の夕飯をごちそうになる。三浦は朝鮮戦争の時の司令官・白善ヨプ将軍と奥さまとごいっしょに食事に連れて行って頂いた。三浦は戦争の終わった時二等兵。士官候補生にもなれないうちに敗戦になった。しかるに白将軍は、三浦が朝鮮戦争の歴史に詳しいというので、目をかけてくださる。世が世なら、二等兵は将軍と同じ食卓になど着けない。靴を磨くだけだ、と私は毎回同じことを言って夫を戒める。
 宮廷料理は昔は我々庶民は食べられなかったものだ、という。野菜がたくさんあって、上品な味で、しかも芸術的な盛りつけ方である。私は水キムチが好きでお代わりする。
 ホテルに帰ると、亡くなられた李庚宰神父がやっておられたハンセン病患者さんたちの聖ラザロ村から、支援者たちが十数人も待っていてくださった。神父の遺志を継いで行きたいと言われる。長い間、日本人たちはこの村を助けて来た。お金の多寡で人の心を言うことはできないけれど、聖ラザロ村にはもう一億円以上が、私たちの「海外邦人宣教者活動援助後援会」(JOMAS)というNGOから贈られている。そのお金は、すべて日本人の個人が出してくださったものである。
 
六月一日
 午前中、李姫鎬夫人の出身校でもある梨花女子大学で講演。文学部の大学院生相手である。「今日は文学の話はしません。どうしてかわかりますか? 毎日おまんじゅうを作っているお菓子屋さんは多分おまんじゅうを食べたくないのと同じです。私は毎日小説を書いているからです」と言ったら笑ってくれた。
 十二時、青瓦台(大統領官邸)へ。日本の総理官邸は古ぼけた西洋館。ここは内装が輝くばかりのロココ調の、堂々とした官邸である。食卓に着いたところでいきなり李姫鎬夫人が出て来られて、ほんとうに家庭的な温かいおもてなしである。お食事は韓国風。すばらしい松の実のお粥も供される。
 身障者のための公衆浴場の話も再び出た。私は一般的なこととして三つのことをお願いする。そうした支援が政治に利用されないこと。経営の方法が明示されていること。経理を自由に見られること、である。真摯なキリスト者である夫人は生涯こうした献身的ないい仕事を続けられるだろう。
 ロッテ・ホテルで新聞記者に会った後、十六時半発のセマウル号で慶州へ向かう。これからが丸一日の私たちの休日。
 
六月二日
 慶州市内は、見違えるほど整備されてしまった。まず博物館へ。新羅の鐘を昔聞かせてもらった時は、二分四十秒も余韻が残ったことを思い出した。
 町を歩き、陶器屋の店に入り、昼には町外れのハングルしか書いてないレストランでお豆腐鍋を食べた。
 
六月三日
 朝、慶州ナザレ園へ。この日系の老人ホームの最初の建物は、日本財団の初代の会長・笹川良一氏が建設を決定した。それが老朽化したので、今、新しい建物を建設中である。まだ工事は始まったところだ。
 ここへは、三浦が文化庁に勤めている時に一度立ち寄った。それを覚えていてくださるおばあちゃんもいる。もう弱りかけているベッドの中の方も、「新しいお部屋ができるまで、待っていてくださいね」と言うと深くうなずかれる。
 一時間近くいて、お人形のようにかわいらしいおばあちゃんたちの「忘れられない、忘れない」の歌声に送られて釜山へ。町で平壌冷麺の有名な食堂へ寄る。五百円ほどでこのおいしさ。買い物はすべて高くて少しもおもしろくないけれど、食べ物は安くてほんとうにおいしい。
 飛行機で福岡へ。新国際空港は、国内線の建物まで、バスで移動しなければならないほどの遠さになっていた。
 
六月四日〜五日
 一日中だらだらと怠ける。呉服屋さんに新しい着物の刺しゅうを頼んだ。
 
六月六日
 日本財団へ出勤。
 ずっと仕事をして、夜は海外邦人宣教者活動援助後援会の会合。六月六日が私たちの記念日なのでまず皆でお祈り。今日から二十九年目の活動に入る。フィリピンのトラピストが経営する学校の貧しい子供たちの食費などに五百三十二万円、ペルーの日系人の老人ホームに一千万円、国連難民高等弁務官事務所のシェラレオーネ難民の援助に三百万円など、計約二千万円の援助を決定した。
 
六月七日
 朝、江東区潮見の日本カトリック会館で、カトリックの提供番組「心のともしび」収録。午後、核燃料サイクル開発機構の運営審議会。パンフレットにいささか厳しい批評をする。
 
六月八日
 掛川の総合教育センターで講演。新幹線で往復。
 
六月九日
 夜、太郎夫婦再び上京。
 私の父が再婚して生まれた妹の宇田川英美と夫君の尚人さんが来訪。太郎夫婦と私たちと六人でやかましい食事。太郎があまり珍説を述べるので、頭がオカシクなる。
 
六月十日
 新宿で、「楽しい手話ダンス」の集まりの前に講演。
 
六月十一日
 夕方、インドからロッシ神父が来日するのを成田まで迎えに行った。インドのイエズス会士で、自動車が走り出すなり私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が不可触賎民の子供たちのために買おうとしていたビジャプールの土地の物件を、なぜ別のものにしたかの説明。前の土地は兄弟の共有という形になっていて、必ず係争事件になると思われる。今度の物件は、椰子油の工場で建物つきで二千七百万円。それだと七月から学校を始められる、という。学校といってもトイレも水道も電気も要らないのだ。そういうものは使う習慣がない。だから学校はすぐ始められる。
 夜九時半から私の家で日曜のミサ。
 
六月十二日
 午前中、浅利慶太さんに『二人のロッテ』というミュージカルをロッシ神父と二人で見せてもらった。招待を受けた子供たちが、しんとなるほど引き込まれて見ているのに神父は感心していた。四時半から「東京都の問題を考える懇談会」。石原知事は司会者も置かない。発言の順番もない。皆勝手に喋ってしかし礼儀は保たれている。加藤芳郎氏、今仇討ちを皆が合法化したがっている、というおもしろい話を披露してくださる。
 
六月十三日
 日本財団へ出勤。執行理事会。賞与を渡す前の短いスピーチ。
 午後、司法制度改革審議会。
 
六月十四日
 朝、巨大なピンクのプロテアの花が咲いた。蕾になってから三カ月目に花開いたのである。
 午後、NHKの「現代に生きる聖書」の一回目から三回目までを自宅で収録。予定より二十分ほど早く終わった。
 
六月十五日
 午前中、教育改革国民会議のレポートを送る。二十三枚分も書いたので、締め切りに遅れていた。午後六時から会議。八時終了。
 
六月十七日
 朝、ロッシ神父と、秘書の堀川省子さん夫妻とで、長崎へ。私は大村と古賀と一日に二カ所で講演。こんなことは一年に一回だけ。夜遅く、佐賀の駅前ホテルまで帰って来た。
 
六月十八日
 佐賀の駅前でレンタカーを借りて、ロッシ神父と省子さん夫妻と総勢四人で有田へ。
 途中小さな田植えの機械を見て神父は感動。インドでも田植えは女性の仕事で、歌を歌いながら皆で植えるのだが、ああいう機械があればどんなに楽だろう、という。しかし堀川氏にエンジンの値段の推定価格を聞くと、神父はがっかりして黙る。私たちが自動車ではなく、飛行機を買うのと同じくらいの高さに感じるらしい。
 有田の焼き物の店が並んでいる「団地」というところで少し買い物。しかしロッシ神父といっしょにいると、高いものは買えない。神父は何も言わないけれど、浪費を見とがめられているような気がするのである。
 昼食に、龍門峡の龍泉荘という川魚料理屋さんで鯉づくしの定食。私は鯉が好きで、ことに握り鮨のおいしさにびっくりした。神父は渓谷の緑と水の気配を喜んでいる。
 夕方、博多駅に神父を送る。京都までは初めての一人旅。お水のビンと小さなサンドイッチの包みを渡した。京都駅では、同じインド人で仏教を勉強しているジョージ神父が、出迎えてくれるはず。
 
六月十九日
 朝、竹下元総理の死去が伝えられた。
 一日、執筆。イスタンブールヘ出発する日も近づいている。夜は、マッサージ。一日ワープロの前にいる生活というものが、変な疲れ方をするなどということを、肉体労働をする人にはとうてい考えられないだろう。
 



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