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暮に、一人の神父を病院に見舞った。 南米で長く暮らされている日系の方で、私たちよりきれいな奥床しい日本語を話される。もちろんお若くはないから、ご両親が亡くなられているのは当然としても、手術のために日本に来られるのだから、親戚や友人とも離れて、何となく淋しくていられると思うが、日本では同じ修道会の若い神父が、弟か息子のように世話をしておられるので、ほっとした。病人を見舞うということが、修道院では大切なことと見なされているのである。 神父にとっては、南米のお国こそ母国なのだと思うが、それでも日本の看護婦さんの注射の仕方をほめ、検査の徹底の仕方に感心し、ドクターの配慮に感謝している。 私はといえば、いつでも態度が悪いから、 「でも、お食事がそろそろ飽きて来られた頃でしょう」 などと言ってしまった。 亡くなった私の母も姑も、入院すると最初の一週間は「ここの食事はうちよりおいしいのよ」などと聞きようによっては私がひがんでもいいようなことを言ったのだが、私は性格がいい加減だから、まずいよりおいしいと言ってくれれば、とにかくけっこうなことだ、とほっとしていた。しかしそういう母たちも、一週間もすると、そろそろ病院の食事の悪口を言い始めるのが常であった。 しかし神父の返事は明るかった。 神父は十六歳の時まで、お母さんが生きておられた。だから、家庭の食事はいつも日本食だった。 今、土地の人にご飯を作ってもらうと、どうしても油の多いこってりしたものになる。胃が悪いので、親戚の人に、週に一度か二度和食を作ってもらうが、それも食材が限られているから、どうしてもほんとうの日本の食事にはならない。 その点、日本で入院していると、毎日日本食が食べられる。それが何より嬉しい、と言われる。 手術後、意識のある病人にとっては、あの無機的な集中治療室で過ごす、という拷問のような数日があることを医学界は改変しようともしないが、私は神父に、「集中治療室には、何日いらっしゃるのですか。それがお辛いでしょうね。覚悟していらしてくださいね」などと、これも余計なことを言ってしまった。 すると、 「もう何度も手術の体験があるから、わかっていますよ。ちょうどクリスマスの前だから、イエスさまがどんな生涯を送られたか、黙想するのにちょうどいい時間でしょう」と笑っていられる。 病人でもすることがある、というのはすばらしいことだ。することがあれば、病気中でも、日常性が保たれるのである。 しかし何より輝いているのは、願わしくない状況の中でも、感謝すべきことを見つけられるという才能であり、謙虚さなのである。
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