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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: カムチャッカ旅行記(3) 北緯五十三度の家庭菜園(ダーチャ)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/11/09  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「OH! NO PROBLEM」
 出発前、日本語で書かれた本で、カムチャッカが登場する小説を二冊読んでおいた。いずれも、日本はおろか、ロシアの極東沿海州からみても、最果ての地であるこの半島での滞在を余儀なくされた十八世紀の日本人が主人公である。井上靖の『おろしや国酔夢譚』の大黒屋光太夫と、司馬遼太郎の『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛である。
 この二つの小説は、「鎖国人」であったはずの江戸時代の日本人がいかに冒険心に富み、不屈の精神で逆境と闘ったかが主題である。それはそれとして、この本で旅行者としての私の目をひいたのは、この地が野菜の全くない僻地であったという歴史的事実だった。「歴史的事実」というといささか大げさかもしれないが、外界から孤立したこの地で、野菜の補給は死活問題で、壊血病でバタバタと死んでいくロシア開拓民の姿が、二つの小説に生々しく描かれていたのだ。
 私は、念のためにと思ってビタミンCの錠剤を持参することにした。輸入野菜はあるのだろうが、干からびたシロモノばかりだろうと思って……。だが、それは杞憂であった。宿舎のペトロパブロフスク・ホテル。五階建てのビルは質素だが、中身は上等だった。魚、肉、そして新鮮で豊富な野菜。ウオッカ、ビール、ウイスキー、ワイン。バスの熱湯もしっかりと出る。ホテルの従業員は英語を話す。何でもありだ。
 十八世紀の小説の世界と今日のカムチャッカを二重映しで連想すること自体、アナクロニズムであることは承知の上だ。だが僻地のはずの現代カムチャッカの豊かな品ぞろえは、私の想像をはるかに上回っていたのも事実だ。「何でもあり」のついでに珍妙な話をひとつ。
 このホテルの二階には、得体の知れない部屋が二つあるのに気づいた。
 ひとつはロシア語の看板がかかっている。ロシア語通に読んでもらったら「刑期満了者を助け、職を与える協会」と書いてあった。奇特なNGO団体もあるものだ、と感心したのは、どうやら早合点だったらしい。なにやら人相の悪い男たちが出入りしている。刑期満了者にしては、身なりもバリッとしている。ソ連邦崩壊以降、ロシアには雨後のタケノコのようにNGOがワンサと誕生しているが、このNGOは、マフィアの活動を合法的に見せる“隠れ蓑”だとのウワサだ。
 もうひとつの部屋は、売春のお嬢さん方の溜まり場だ。多分、これも部屋を合法的に長期で契約しているらしい。夕食後の私の部屋は、旅行仲間の酒盛りの場として深夜まで占領されていたが、滞在中、毎夜ウオッカで談笑中の部屋に、定期便のようにお嬢さん方から電話がかかってきた。
「私は若くて美人である。あなた方の旅のお暇をなぐさめたいが、いかがです」と。この英語がなかなか上手なのである。ちなみにカムチャッカの観光客は、日本人よりアメリカ人のほうが多い。英語遣いの彼女たちは、どうやらホテル客の動向を掌握しているらしい。
「私は七十五歳である(本当は私はそんな高齢ではない)」と断ったら、なんと「NO PROBLEM」とのたまうではないか。「IT’S MY PROBLEM NOT YOURS」(君は問題ないだろうが、俺のほうが問題なんだよ)と防戦につとめたら、彼女、ケラケラと笑って電話を切った。
 同じように電話で悩まされた同行のロシア語堪能の友人の話では、一夜五十ドルとのことで、「モスクワでは百ドルだが、カムチャッカは格安でサービスしている」といったとか。それでも、ルーブルに替えれば、この地のOLの二週間から一カ月分の給料に相当する“いい商売”なのだ。
 
野菜のウマイカムチャッカ
 カムチャッカの野菜に話を戻そう。私は、世界五十五カ国を旅したことがあるが、州都ペトロパブロフスクで出された生野菜は、決して誇張ではなく、そのウマサは世界の超一級だった。一番まずいのは昨今の東京であり、トマトにしてもキュウリにしても、形だけはいいが、およそ、それらしい味がしない。その点、カムチャッカの夏の生野菜は絶品である。新鮮で素朴で、味が濃い。
 カムチャッカの生野菜のシーズンは、夏の四カ月だけだ。バザールで、脂身が多く塩のきついベーコンと、ネギ(日本の長ネギではなく、幼い玉ネギの葉)、キュウリ、トマトを買う。キュウリ一キログラム三十五ルーブル、ネギ五十ルーブル、ベーコン百ルーブル、鮭一本四十ルーブルといったところだ(一ドルは二十五ルーブル)。北国の山海の幸でウオッカをやるのは格別だ。とくにベーコンの切り身とネギの丸かじりが絶品で、後を引く。
 なぜ、カムチャッカの野菜はかくもウマイのか。
 ソ連時代、三千人の北朝鮮の人々を招致して集団農場方式で農業開発をやったものの、生産性は決して高くない。ウマイ野菜の秘密を解くカギは、集団農場ではなく、この州に六万あるダーチャ(別荘)という名の家庭菜園であった。
 通訳兼ガイドのアレクセイ君に頼んで、ペトロパブロフスク郊外にあるダーチャ群のひとつ「ナジェーズタ」(希望)集落に出かけた。あらかじめ約束をとりつけたわけではなく、移動中のわれわれ一行のバスでいきなり乗りつけたのである。たまたまドアをたたいたのが、ファリードさんのダーチェであった。
 ちょうど週末であり、市内のアパートからやってきた家族全員がいた。テニスコート二面ほどの区画に、小ぢんまりとした二階建ての別荘が建っている。正方形の一階部分に、野球のホームベースに似た五角形の二階が乗っており、遠くから見るとキノコのように見える。飛び込みでやってきた招かざる客だったが、快く迎えてくれた。「何でも見てくれ」とのことだった。
 トマト、キュウリ、ナス、赤カブ(ボルシチの材料となる)、キャベツ、じゃがいも、菊の花、ビニールハウスにはイチゴがなっている。丹精した家庭菜園の緑が、庭一面に輝いている。ヤブを開墾して造った農地とのことだが、もともと二万年もかかって自然がはぐくんだ栄養豊かな処女地の土壌なのだ。化学肥料と殺虫剤は一切使わずに、自家製の推肥を補給している。これが豊饒な緑の作物をもたらす原点である。カムチャッカの野菜のウマサの原因は、まさに土そのものにあったのだ。
 
雪の降る夜は楽しいペチカ
「今年は凶作だよ。五月には雪が降った。六月には大きなヒョウが落ちてきた。イチゴが赤くならんうちに、冬が来るんじゃないか」
 建設労働者だというファリードさんは心配顔だ。
 じゃがいもは全量冬のために備蓄する。野菜は、三リットル入りの大ビンに入れて、塩漬けやピクルスにする。余った野菜はバザールで売る。「でも今年は現金収入は少ないね。お天気のせいだよ」とファリードさん。彼の足元には満開の菜の花が。北緯五十三度のペドロパブロフスクの七月。ダーチャには春と夏が一緒にやってくる。
「冬はどうするのかって? 一面が雪だよ。このあたりは傾斜地だからね、週末にやって来てスキーをやる。夏は働き、冬は遊ぶ。それがダーチャだ。冬の夜、塩漬けの野菜、それに少しばかりの豚の脂身のベーコンで、ウォッカを飲む」
 彼は小説も読む。ドストエフスキーやトルストイもダーチャに置いてあるという。建物の内部を見せてもらった。一階部分の中心部にコンクリートとレンガで作った手製のペチカがどっかりと据えつけられ、二階まで突き抜けている。煮炊きも暖房も、すべてペチカ。冬のダーチャ生活は、すべてペチカの周囲で繰り広げられる。
「そして、温泉にも行く。一人八十ルーブルで高いので何度も行けないが、一日中酒を飲んで遊んでいられるからね」ともファリードさんはいう。
 自給自足の家庭菜園兼週末の別荘であるダーチャ。カムチャッカ州では、ダーチャ用に一世帯六百平方メートの土地を無料で希望者に割り当てている。計画経済の圏外なのでソ連社会主義時代からおしなべて生産性は高い。野菜の六〇%、じゃがいもの七〇%をダーチャが生産している」と州当局はいう。
 もともとこのダーチャ制度、集団農場で働かされる農民の不満のガス抜きのために、やむをえず設けた「自留地」が出発点だ。いわば社会主義中央司令経済の鬼っ子だが、今日ではダーチャ抜きではロシア経済は語れない。その意味では、この制度、ソ連が残した意図せざる傑作といってもよい。
 ペトロパブロフスク市街の日曜日の短い夏の昼下がり。意外と人通りが少ない。「ダーチャが忙しいんです」と、ガイドのアレクセイ君の説である。
 



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