共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ロココ様式と工業生産品様式  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1997/03/31  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/05  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   最近の動燃の事故のニュースの最中に、私はイギリスのマンチェスターの近くのブレストンという寂しい港を訪ねていた。一九九二年の末に、動燃で使うプルトニウムを載せて、「シェルブールの雨傘」という映画で有名になったシェルブールから、日本の東海村に向かった「あかつき丸」という船の航海を書くために、関係した土地で取材を始めているからである。
 シェルブールヘは友人の車でパリから約三百五十キロをドライヴしたのだが、途中で彼が有名なノルマンディー作戦の戦跡を見せてくれた。本道から少し入ったオマハ・ビーチという所だから、名前からしてアメリカ軍の上陸地点の一つだったのだろう。そして彼らが攻撃地点として目指したのは、他ならぬシェルブールとカーンであった。
 オマハ・ビーチの浜には人の気配もなく、一台の小さな車がいただけだった。松葉杖を脇に抱えた男が、車の座席から足だけ出して靴を履き替えている。彼は浜辺で歩行訓練をしていたように見える。
 すぐ近くにアメリカ軍の墓地があるというので、私の友人は私に尋ねた。
「お墓、好きでしたよね」
「ええ、大好き」
「じゃ、ちょっと寄って行きましょうか」
 五時に閉まるというのに、五時七分前くらいであった。ちょっと入り口から覗いて帰ればいいと思っていたのだが、もう少し時間があった。全貌が見える所まで来ると、低い白い墓標が整然と並んでいた。その列の中で時々ラインが変調したように見えるのは、頭部にダビデの星を置いたユダヤ教徒の墓が混るからであった。
 かつて私はフランスのランスで、第一次大戦中の戦死者の墓地に立って涙を流したことがあった。ほんとうに簡単な理由からである。墓石に刻まれた戦死した若者たちの年があまりにも若かったからである。生きていさえすれば必ず何かいいことがある、と言えるほど現世が明るい場所だと保証することは私にはできないが、たとえ私がよく言うように、この世は原則として惨憺たる人生であっても、若い人には体験させたかったと素朴に思うのだ。
「あの子が死んでいるのに、なぜあなたは生きているんです」
 レマルクの『西部戦線異状なし』の中に出て来るケムメリヒの母は「僕」に叫ぶ。この一言に対して、すべての人間は沈黙するほかはない。これに答えられる人は一人もないのに、人は現世を理屈で割り切り、自力で完成できる、と思い上がる。そして嘘で固められた政治家たちは「安心して暮らせる社会」などという神をも恐れぬ幻想を約束する。
 友人と私は、入るのがためらわれるほどきれいに整えられた芝生に恐る恐る足を踏み入れた。墓石には、名前、死亡年月日、所属部隊名と階級だけが記されていた。生年月日はなかった。
 しかし何という完全な芝生の手入れ、そして何という完璧な墓石の洗い方だろう。芝生には禿げた所など一カ所もない。墓石はまるで昨日でき上がったばかりという感じだ、と友人は言う。字が彫りこんであるのだから、その窪みには挨もつき、海の砂も溜まり、空を飛ぶ鳥は、真上から糞も落とすだろうに、どの墓石にもそのような汚れの気配も在い。
 ほどなく私たちは、五時の門限が来たことを知らされた。泉水の向こうに三方に壁を巡らした形の一種の慰霊碑がある。そこから鐘の音でアメリカ国歌が流れて来たのだった。
 一九四四年のDデイは六月六日。それから約半世紀以上、アメリカはこれ以上できないほど心をこめて整えた永遠の住処を彼らに与え、一日として欠かさずに彼らが国家のために死んだことを証しし続けている。アメリカ国歌の次にもう一つ賛美歌のようなメロディーの曲が流れ、私たちは最後に墓地を出た組になった。門はもう閉められていたが、外交団のナンバーをつけた車が一台門の所にいて、少しも急がせずに私たちの出る時に、明るい挨拶の言葉と共に門の閂を開けて送り出してくれた。
 連合国軍がノルマンディーに上陸したことが正当であったかどうか、私にはわからない。アメリカはいつからモンロー主義を止めたのかさえ定かではない。
 たとえいかなる理由があろうと、彼らもまた人を殺傷しうる兵器を携えていたのだ。戦場では、生き残るか殺されるかどちらかだ。殺されても闘わない、などというご立派な選択を最後まで持ち続ける人になれる、と、少なくとも私は断言することはできない。
 『西部戦線異状なし』という秦豊吉氏の訳だけが、恐らく、多くの日本語の読者の心に焼きついている。しかし今改めて見ると、題は「Im Westen nichts Neues」である。ノイエスというのは「目新しいこと」ではないのか。ここ戦場にあるすべての魂を震え上がらせるほどの残酷な現実も(もちろん小説の中での話だが)それは人間の歴史の上では決して目新しいことではなかった、というのがその題のほんとうの意味なのではないか。
 日本は何と、国家のために死んだ若者たちを大事にしない所なのだろう。たかが中国から一言言われただけで、総理は靖国参拝をやめた。これで日本は中国の思うつぼ、御しやすい国、朝貢を認めた国になった。もし戦死者は悼まないというなら、総理はいかなる国に行っても、戦没者の墓に花を供える行事だけは出席しません、と断固として拒否されることを望む。そうでなくては筋が通らない。総理は、全く哲学や信念のかけらも見せなかったのである。
 どの戦争も、戦争は悪である。たとえ勝者であろうとも、人の不自然な死をもたらしたというだけで、侵略者と同じように悪の要素を持っているであろう。しかし時には人間は、悪によって生き延びる、という不条理を強いられる。不幸な時代と場所に生まれ合わせた若者たちは、その運命に組み込まれた。我々はその点をうやむやにして、人道主義をよそおえるという軽薄な幸運にありついているだけだ。ただそれだけの違いだ。不運な若者たちの運命を、どうして堂々と国家も総理も社会も、悼んでやらないのだ。そんな冷たい国に責任ある若者が育つと思うのだろうか。
 私の旅はそれからオーストリアに廻ることであった。ここからは一種の公用旅行に切り替わる。けちな私と、私の勤務先であるけちな日本財団は、私が安く買った飛行機の切符の、それぞれの区間のマイル数を計算して、私が自分の取材目的で飛んだ距離と、公用になる距離とを厳密に按分比例し、公用の部分だけの旅費を払ってくれるシステムになっている。これほどお互いに合理的なことはない。聖書風に言えば「幸いなるかな、小心なる者たちよ!」である!
 オーストリアでの仕事は三つ。
 第一はまずウィーンで、国立音楽大学を訪ねることである。日本財団は一九九五年に百万ドルの基金を設定して、学生たちに奨学資金を出している。私たちが行くというので、奨学生たちによるミニ・コンサートを開いてくれるように手配がされていた。
 驚くべき技量ばかりである。前学長が私の隣で、学生たちの横顔を話してくれる。マックス・レーガーの曲を弾いたヴィオラのエリサヴェータ・スタネヴァは、ブルガリア人。国家的な状況も最悪の中で、貧しい環境に育った。悲しみを澄んだ地声で歌うような静かで骨太な演奏をする。トランペットのエバ・マリア・シュランダーの演奏には、全く不安定な部分がない。女性のブレスト・ミュージシャンは、やはり男性からみると、歴史的にも能力上でも障壁が大きいそうだが、音だけ聞いていたら女性奏者かどうかわからないだろう。バリトンのアドリアン・エーレッドは甘いマスクで、今すぐにでもどこかの歌劇団で使ってもらえそうな楽しさでシューベルトを伸び伸びと歌う。そして中国からオーストラリアヘ逃れて来たヴァイオリンの陳チェンの技術は、もう一流の演奏家に近い、と私は思う。
 そこで私は急に通俗的ミーハー根性に立ち帰り、皆にサインをもらうことにした。今に彼らが一斉に世界的な演奏家になったら、この日の一枚のべら紙のプログラムは、サザビーのオークションで信じられない高値に売れ、貧乏して落ちぶれている私の孫は、喜びのあまりヒキツケを起こすだろう、という筋書きを思いついたのである。
 この音楽大学の一つの校舎はウルスラ会の女子修道院だった建物で、立派な聖堂が今も残っていて毎週ミサが立てられている。そこでバッハを聴かせてもらった時には胸を打たれた。まず神の存在があり、その信仰を表明する場があってこそのバッハなのである。宗教は科学に対する迷信で、ただ演奏会ができるホールがあるだけというところで、どういうバッハを演奏するというのだ?
 翌日の午後は、毎年ザルツブルク・セミナーが行われる、郊外のレオポルドスクロン城と呼ばれる館を訪ねた。
 植えたてのパンジーがまだ雪の中で凍りそうに痛々しく咲いているテラスからは、静寂の湖の向こうにオーストリア・アルプスが輝いている。ロココ調の館は、一七三六年から四四年の間にレオポルド・フィルミアン大司教によって建てられ、有名な劇場主であり、ザルツブルク音楽祭の創始者の一人でもあるマックス・ラインハルトによって改装されたが、今でもみごとな古典的な姿を保っていた。大きな陶製のストーヴ、ミニ・ヴェルサイユ風の鏡の間、ただし床は緻密すぎる寄木細工にあまりにも金がかかったので、真中の部分だけ模様なしになっている、と学長のオリン・ロピソン教授は笑う。
 優雅な二階部分の回廊を持つ古典的な図書室は、二十四時間開いているので、会議中に読みたい本があまりにも多いと焦っているアフリカからなどの研究者の中には、夜中二時まででもこの図書室から離れない人がいるという。
 古い城の部屋は今では当世風の個室に改造されているから幽霊も出にくいだろう。昔はカーテンだけで仕切った修道院風の大部屋だったというが、今でも個室にテレビはない。ここでは、一人がどこかにこもるのではなく、共通の場に出て皆と語るのが目的だからだ。私にとっては恐怖の生活だが……。
 戦乱後のヨーロッパで初めて各国の若い学究たちが一堂に会したのは、今からちょうど五十年前、一九四七年のことであった。今まで敵味方に分かれて闘った国々の人たちは、語るどころか同じテーブルに就くことさえ心理的には深い傷の痛みも抵抗もあったであろう。しかし「過去を語るだけでなく、未来を考えよう」とセミナーの創始者のクレメンス・ヘラーは語っている。悲痛な真理である。
 このセミナーには、国と社会の運命をそれぞれに担った多くの人々が、それぞれの年齢や立場で係わった。元オーストラリア首相ロバート・ホーク、ノーベル経済学賞受賞者ワシリー・レオンティフとロバート・ソロー、俳優マルセル・マルソー、人類学者マーガレット・ミード、作家アーサー・ミラー、前ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフ。
 当時はまだ中堅だった若い優秀な政治家、芸術家、学究たちが、数週間、起居を共にして社会的、政治的、経済的問題を語り合い、自分の民族の姿を語って来た。別れる時、彼らは抱き合い、涙を流した。このようなシンパシーこそ、世界を全うな方向に動かす力になり、真の予防外交を築くことになるであろう。日本財団はこのセミナーに対する支援団体の一つでもあった。
 セミナーは昨日終わったところだそうだったが、私たちは眺めのいい城の宴会の間風の食堂にも案内された。食卓は丸いので席の上下はない。運ばれて来るスープや肉は、誰かが皆の分を取り分ける係になる。元西ドイツ首相ヘルムート・シュミットがたまたま坐った席も、それをしなければならない場所だった。隣に坐った人が、首相に給仕をさせることは悪いから自分がやります、と言った。しかしここでは俗世の地位は、一切問題にされないことになっていたから、シュミットはそれをやらねばならなかった。
 私の第三の任務は一番気楽で、役得というべき仕事だった。日本財団がザルツブルクのイースター音楽祭のスポンサーになっているので、そこに出席することである。もっとも、私は時間がないので、第一日目にアバドが指揮するベルクの「ヴォーツェク」と、第二日目にモツアルテウムで行われる東京クワルテットの演奏会に出て帰国することになっている。このクワルテットには、日本財団が日本音楽財団の手を通して買い、無償で貸し出しているストラディヴァリウスが四挺、それもパガニーニが愛用したものばかり??ヴァイオリン二挺、ヴィオラ一挺、チェロ一挺??が揃っている。一番古いヴァイオリンは一六八○年製、一番新しいチェロで一七三六年製である。パガニーニが手にした楽器がそれも四挺揃って聴けるというだけで、もう土地っ子は興奮を隠し切れない。アントン・ウェーベルンの弦楽四重奏のための五つの楽章の難解な曲を「ウィーン風に弾いた」と熱狂して、立ち上がって帰ろうとしないのである。
 しかしオーストリアの華は、何と言っても老女たちだということを今回発見した。ウィーンで泊まったインペリアル・ホテルはヴュルテンペルグ公爵が、オーストリア皇帝の叔父の娘であるマリア・テレジアとの結婚に当たって一八六五年にネオ・ルネッサンス様式で建てたものだと言う。爾来、華々しい歴史の宿であった。ドイツのウィルヘルム一世、ビスマルク、ブラジル皇帝ペドロ二世、デンマーク王のクリスチャン九世、リヒャルト・ワーグナー、サラ・ベルナール、トーマス・マン、ラビンドラナート・タゴール、スヴェン・ヘディン、ルイジ・ピランデルロなどがこのホテルに泊まった。
 その食堂に、皺だらけの顔に丁寧にお化粧をして、昔風の天然真珠の七連の!ネックレースをして帽子を被った老婦人が一人で食事をしに来ていた。その人は私たちが音楽大学を見学して帰って来た時もまだ、階下のロビーに犬といっしょに端然と坐っていた。
 オペラでは、私の隣に品のいい新しい感じの夜会の服を着たやはり老女が坐っていた。この婦人は、アバドの熱狂的なファンであることが後でわかった。
 人が何と言おうが、それが悪であろうが善であろうが、醜であろうが美であろうが、歴史の長い重い流れの中で、自分自身の人生を自分の好みと責任とにおいて設定し、それを生き抜く。国家と社会と個人に、そのような土性っ骨がないと、日本人のような工業生産品様式のクローン人間ばかりが増えるのである。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation