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イタリアを旅行していると、イタリア人のさまざまな美的感覚に驚くことがあるけれど、もう一つの日本人にない才能は会話を楽しむことである。 友人がロッテリアという宝クジを買うという。一本八十円くらいで、カードの上の九十までの六つの数字を塗りつぶして登録する。それを売るのは町のいたる所にあるバー(イタリア人はバールと発音する)である。 賞金は前回までにどれだけ当りくじが出たかどうかによる。ずっと当り番号が出ていないと、賞金は溜って、日本円で四億円になったとか、十億円になっている、とかいう恐ろしい額に達する。 六つの番号が当る確率なんてほぼないに等しいのだが、人々は八十円で億という金が入った時のことで当分の間、喋ったり笑ったりする。教会に寄付するとか、叔母さんを助けてやるとか、善行の予約をして、獲らぬ狸の皮算用で神さままで喜ばそうといい気なものである。 しかし八十円にしては、これをネタに喋ったり笑ったりする会話は、夢もあり、人柄もあらわにし、彼女又は彼の生きている実人生を生き生きと垣間見せる。本当に安いものだと思う。 バールで券を買う時だって、ただ黙って金の授受が行われるわけではない。バールの親爺は友だちに「どこから来た」と言う。「ミラノよ」と彼女が言うと「どうだ、今日のローマの空の青さは。こんなすばらしい空はミラノにはないだろう」と言う。私の友人はいつも心に余裕のある人だから、黙って負けてはいない。にこにこと陽気に、ローマにはなくてミラノにあるものをユーモラスに言ってやる。ローマ人とミラノ人はお互いにお互いを差別しているわけだ。彼女に言わせると、差別も文化の一つの形で、粋な差別をするには幾つかの約束ごとがいる、と言う。双方に大人の分別と節制があり、両方が同じ程度の差別の根據を持ち、それを陽気に言い合える解放された空気が必要だ。その上、その差別によって、金銭、損得、特別の権利などの一切を、取得したり奪われたりしないことである。 私たちがイタリアを旅行するのは身障者と一緒である。車椅子は四台ある。こういう場合、観光地や教会の立ち入り禁止区域にバスを特別に入れるには、ガイドさんやミラノの友人が必ずおまわりさんに交渉に行く。おまわりさんがしぶしぶ顎を上げたらOKということだ。 そんな時だって会話なしではない。「ナポリから来たんじゃないんだろうね」とおまわりさんは言う。ナポリ人に対する偏見と差別があるのだ。 「違うわよ、北の方よ」 「ブレーシャかベルガモか?」 この二つの土地の人はごうつくばりですぐかっかする仕方がない性格とされているのだそうだ。 しかし結局、おまわりさんはもう一度顎を上げる。「全く煩くてしょうがない奴ばかり来る」と思いながら、彼は身障者には優しいのである。
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