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定年が、人間の生活を破壊するから、雇用の制度を見直さなければならない、という論議があるのだ、という。 しかしこれほどおかしな話はないだろう。人間死ぬ日まで体を動かして、自立した暮しを楽しむのは、最高の幸福だと私も思う。そのために、うまく行くかどうかわからない秘策を、私なりに練ってもいるつもりである。 しかしいつか定年が来るということはわかっていることなのだ。若い時、散々会社の厳しい仕事に組み込まれて、夜遅く疲れ切って我が家に帰る時、サラリーマンたちは「ああ、もうこんな生活は嫌だ。自分で自分の時間の使い方を決めたい」と思ったことがあるに相違ない。その夢にまで見た日が定年という形でやって来るのだ。 人間は突然違った状態に追い込まれると、呆然として何をしたらいいかわからなくなる。私も構造の悪い古い家に住んでいた頃、洩れていたプロパンガスに火がついて三メートも火柱が立った時、一瞬、何をしていいか全くわからなくなった。すぐ手を伸ばせば届く所に洗濯機があり、その中にどっぷり濡れたバスタオルがあるのに、それを投げることさえ考えつかなかったのである。 しかし定年は突発的にやって来るものではない。地震とか、今まで聞いたこともなかった毒物を撒かれたとか、隕石が落ちた、とかいうようなことではない。死と定年は必ずやって来るものだ。だからそれで生活が破壊されると思うのは、つまり当人の準備が悪いのである。 私は絵の才能がないので、羨ましいと思って雑誌の特集を眺めていただけなのだが、石に顔を描くことを趣味にしている人の話を読んだことがある。小石はその辺で拾って来るのだ。石の自然の形で、描く人の顔も表情も違ってくる。絵の具代など大したことはなかろう。恰好の違った石を捜して歩く、ということがまた無限の楽しみになる。 定年以後まで、会社に自分の働く仕事を設定してもらおうなんて、逆に惨めな限りだろう。人生の最後に、せめて人間は自分自身の時間の使い方の主人になるのが自然だ。 私の知人は、定年後、いろいろなことをして遊んでいるが、時間を決めてどこかへ行かねばならない、ということだけはしないのだという。音楽会もごめん。パーティーもまあご遠慮しておこう。その代わりいつ行っても自由に遊べる、ということだけしている。 そう言われてみるといくらでもある。町をぶらつくこと。展覧会で絵を見ること。垣根の刈り込み。川の源流を探索すること。料理。習字。木彫。陶芸。いずれも今日しなくても明日できる。しかも極めると奥が深い。 長い年月時間に縛られて暮らして来た生活に存分に「復讐」して死ぬのはなかなか乙なものだ。しかもこの復讐は陰湿ではなく、笑いがあることがすばらしい。定年後も会社にしがみつくような策のないことは、その人の生涯にかけてはずかしいことだろう。
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