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二月四日付けの朝日新聞の投書欄に東京都杉並区の学生、吉岡いずみさんという方のいい投書が載った。「オウムの子は守れませんか」という題である。オウム信者の子供が、あちこちで就学拒否されているのは彼らから教育の権利を奪うものだ、というもっともな主張である。 「もし、このまま教育の機会を失ったら、子供たちの未来がどのようになるのか、だれも心配しないのでしょうか」 と吉岡さんは書いている。 いつも「人権、人権」という新聞も、NHKも民放も、日弁連も日教組も部落解放同盟も、宗教団体もケースワーカーたちの団体も、なぜもっと強力に、オウム信者をどこの土地からも追い立て、行く所がないように追い詰め、子供たちの就学を拒否することが、いかに残酷かということに対して声を上げないのだろう。 事件の直後、私は服役中の麻原夫人のお母さんという方のことをしきりに思った。良識的な方だったというから、孫たちのことに一番心を傷めていたと思う。私は田舎にうちがあるから、せめて子供さんたちを連れて、何もかも忘れる時間を作るために遊びに来てもらえたらいいのに、と思ったことがある。 オウムに対してだけではない。過去には沖縄で自衛隊員の子供を受け入れないという動きがあった。それに対しても人権団体は人道的な動きをしなかったし、それは違憲だという世論が澎湃として起こることもなかった。 一番責任があるのは、麻原を今でも尊師と呼び続けているという上祐などという人である。麻原はとにかく大量殺人の首謀者であった。それも過失ではない。長い年月、緻密に練り上げられた計面的な殺人で、しかも無関係な人を大量に殺したのである。 それはナチスと同質同等の犯罪である。その計画者を、尊師と公言する心境はそれだけで狂人である。その元に集まるオウム信者たちが受け入れられないのは当然であろう。オウムは反省し、そのような教義を間違いだったと心底思う他回復の道はない。 オウムの出現は、現代の親にも教育者たちにも責任がある。オウムは、落ちこぼれそうになった人にも「お前は選ばれた人だからこれができる」と暗示をかけて厳しい修行を要求した。子供たちに沈黙一つ守らせられず、辛いこと危険なことは何一つさせないことをいいとしてきたおべっかつかいの親たちと教師たちが、埋められなかった心理の部分を、オウムが代行していたのである。 オウムの子供と知って受け入れ、彼らを温かく迎え入れる学校と地方にこそ、一際抜きんでた人間の高度な精神が輝くのだが、そういう土地はないものだろうか。 親がよく教えれば、子供でもかなりの義侠心や庇う勇気はできるものである。苛めるのは弱いからなので、オウムの子供たちをどこでどのように救えるか、行政、教育者たち、宗教団体などは力を出し合ういい機会だろう。
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