共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 百円と1ドルの重み  
コラム名: 昼寝するお化け 第174回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1999/03/12  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   二晩泊まりで、東北に出かけた。初日と三日目だけに仕事があって中一日は休みなのだから、ほんとうなら自宅に帰って出直すのがいいのだろうけれど、仕事は溜まっており、年のせいか重い旧式のワープロを下げて新幹線で往復するのもめんどうくさくなって来た。
 それなら、雪を眺めながら土地のホテルに残って仕事をしようと決めると心が踊った。昔はホテルに泊まって原稿書きをすることを「カンヅメになる」と称してよくやっていたのだが、私はこの頃書くのがやたらと早くなったので、ほとんどそういう優雅な機会もなくなってしまっていたのである。
 東北は寒いでしょう、と会う人々が口を揃えて心配してくれるが、私は晴女で盛岡は三月の陽気だという。雪も路肩に汚れたのがへばりついているだけで、道は乾いているし、それに私はつい先日までベラルーシにいて、寒暖計がなかったから正確にはわからないのだが、もしかすると零下十度から二十度くらいの気温の中にいたのである。それから比べると、こんな温和な盛岡の冬なんてもったいないくらいである。
 しかしひさしぶりで日本で外食の生活をしてみて、私はほんとうにびっくりしてしまった。どうしてこんなに高価でまずいものを平気で売っているのだろう、と思うのである。
 盛岡のホテルで最初の晩に食べた和食堂では、河豚の中落ちの揚物を頼んだ。二千五百円だというが、出て来たお皿には三センチ角くらいのが二個ついていただけである。いや浅ましくもっと正確に書けば、揚物は実は三個ついて来たのだが、そのうちの一個は全く骨だけで食べるところがなかったのである。食べられないものを、いかにも食べられそうに盛りつけるところなど、実にフユカイだ。
 一度で懲りて、私はそれからホテルの食事をしなくなったのだが、普段は全く買わないおかず売り場を見ると、これまたびっくりである。大根の煮付けが六百円。菜っ葉のごまあえのようなものが三百円。一食にお野菜の料理一つ買うと、とてつもない食費になってしまう。
 儲けなければならないことはわかるけれど、どうしてこれっぽっちの大根の煮物がこんなにするのかわからない。私は食料の買い出しもするし、自分で料理もするから、この分量の煮た大根の材料費もよくわかるのだ。六百円になるなんて、詐欺だとしか思えないのである。
 漬物の値段もおかしい。小さなプラステックの曲げ物に入った白菜が三百円。自分で作ったらどれだけでできるかを考えるから、私は次第に憂鬱になって来た。しかも自分ではできないほどおいしい味になっているのなら、その技術に対してお金を出すのは当然のことである。しかし私が買ったおかずは、ことごとく私が自分で作ったのよりまずいか、せいぜいで同等なのである。
 私は普段意識しない幸福を一つ発見した。それは、自分の体力、健康、楽しみが、自分の家で料理を作ることを可能にしている、というただそれだけのことである。
 昔外食は、やはり楽しみの一つだった。しかしふと気がついてみると、私の家族は最近ではほとんど外食をしなくなっている。技巧的なフランス料理などは、私が全く作れないので時たま行くけれど、中国料理はシンガポールに行った時に安くておいしいのを食べるだけ。日本の中国料理は衰え切った偽物が多い。お料理屋さんの日本料理には、技巧はあっても生気がないから、何となく行きたくなくなったのである。
 最近私がつくづくやりたいのは、安くておいしいおかずを作って、サラリーマンや一人暮しの老人に気楽にたっぷり食べさせるお店をやることである。魚と肉だけでなく、野菜料理を気楽にどかっと出す店である。ほんとうは小説を書いているより、そっちの方が世のため人のためになるかな、と思う瞬間もあるけれど、そんなことを言うとまた専門家にたしなめられるだろう。毎日毎日、お惣菜を売るほど作り続けた体験が私にはない。毎日毎日、小説を書くことなら四十五年以上やって来たのだから、馴れている方をやるべきだ、という結論になってしまう。

五百円の食費で一ヶ月暮らす人々
 年を取ると次第にケチになるというのは、一種の病状らしくて、私も人並みにその「年頃病」にかかりつつあるのだが、日本人はものの価値に対して不感症になっているような気がする。
 日本人は、百円、或いは、一ドルの価値がわからなくなって来てしまっている、というのが私の感じだ。先日ドイツに行った時、ちょうどお昼時になったので、市内のしゃれたコーヒー・ショップに入った。私たちはサービス・ランチみたいなものを取ったのだが、隣の感じのいいお嬢さんを見るとパンと茄で卵である。人は皆質素に質素に暮らしている。
 途上国の収入は、ごくおおざっぱな言い方になるが、世界的に一家で一日一ドル(約百十円〜百二十円)が平均という感じだ。それで家族全員、五、六人が食べる。もちろんそれより多いうちもあるが、とても一か月日本円で三干五百円前後なんてもらっていないという家庭も決して珍しくはない。
 先日行ったベラルーシでは、夫婦で一月千円以下で暮らしている人に会った。もちろん放射能の残った土地でジャガイモを作り、放射能の汚染地域の土地に生えるキノコを採って食べたりしている。しかし一人がざっと五百円の食費で一か月間暮らしている人がいることなど、日本人は全く知らないのである。私が食べた三センチ角の揚物一個が千二百五十円する話をしたら、ベラルーシの人は眼を丸くするか、私が嘘をついていると思って信じないのどちらかだろう。そして信じたら、日本とは何というひどい国かと思うだろう。
 私はよく週末を東京の近県の海辺で暮らしているが、そこでは物価はまことに安い。百円かそれ以下でパンが一包買えるし、ミルクは百五十数円である。百円はそれなりの重みを持つお金の単位なのだ。そして世界的に、一ドルもまた家族数人の日々の食費を賄う単位として、ずっしりと重い実力を持っているのである。
 その感覚がなくなると、国際的な援助の判断も狂って来る。
 日本では一千万円というと、マンション二戸買うにも充分ではないお金だが、多くの途上国では、天文学的な数字である。このお金を巡ってどんな悪いことでもしようという気になるお金だ。その現実を認識しないで、平気で五千万円、一億円、或いはもっとそれ以上のお金を出す話をするようになったら、どこかでその人は狂って来ているのである。
 私は今勤めている日本財団の職員に、百円と一ドルの重みと恐さを本能的に感じ取れる人になってもらいたいと思っているのだ。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation