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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 毒・魚・飲み物  
コラム名: 昼寝するお化け 第197回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2000/02/25  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   フランスの有名ブランド、イヴ・サンローランが出した香水「オピウム」が中国で発売禁止になるというニュースを二月五日付けの朝日新聞が報じていた。こういう話は小さいようでいて、中国の今日の状況を知らせてくれる上でいい記事だと思う。
 オピウムというのは「アヘン」のことで、見出しの部分には「名前からアヘン戦争のにおいが……」とある。「商標登録を管理する国家工商行政管理局が販売禁止の要望を受けて審査、『名前が不適当』として、販売に必要な登録を取り消した」「関係者によると、店頭から一掃され、在庫は本国フランスに送り返された」という。
 私も昔はかなり香水に凝った時もあったのだが、夫が食いしん坊なので、続かなかった。
「ステーキを食べる時は、あの匂いも食べてるんだ。そんな時に、香水の匂いなんかぷんぷんさせられたら、がっかりだ」
 というのがその理由である。
 だから私は最近の香水事情にはうといのだが、確か「ポワゾン(毒)」というのもあったと思う。「オピウム」はそもそもうっとりするものだろうが、「毒」を名前に選ぶというのは、文学的頽廃の世界の感覚だから、中国のお役人には理解できないだろう。もっとも「ポワゾン」のことを私は時々混同して「ポワソン」とか「ボワソン」とか言っている。「ポワゾン」は毒、「ポワソン」は魚、「ボワソン」は飲み物だ。フランス人というのは、ほんとうに頭がいいと思う。ちゃんと区別して使えるのだから。
 日本人からみると、大人げないこの中国の反応も、政治体制の違いから来ている。
 資本主義の特徴は、頭の中で考えることは全く自由で、行動のみに責任が発生するということだ。つまり内心のことは、信仰から妄想まで、或いは、家庭内の会話から日曜日の過ごし方まで、社会に影響がほとんどないものは、見過ごされる、ということである。
 しかし社会主義国家中国は、人の頭の中まで管理しようとするから、当然こういうことになる。
 資本主義社会では、笑いはしばしば人間の悪や弱みから発生する。立派なことで笑うこともあるが、その時は、立派すぎて嘘が見えすくから笑うのである。
 昔トリカブトという植物の毒で夫が妻を殺した事件があった。それからしばらく経って、私は山の生活を習いに同好者たちと度々山の裾のあたりに入るようになった。山にはよくトリカブトが生えているという話が出ると、そこにいた仲のいいご夫婦の奥さんが、
「ほんと? じゃ今度ぜひ教えといて欲しいわ。いろいろと知っとくと便利ということもあるかもしらんし」
 としらっと言う。その間ご主人の方は、すぐ隣ですやすやとお休みだから、皆げらげら笑っている。
 仲のいい家族ほど、危険な言葉も平気である。自由主義というものは、表現や行動の悪を、選択する自由も、考える自由も、表現する自由も持つということである。しかし同時に、空想と現実とは一致しないという事実も知っている。
 今は日本でも推理小説やドラマが愛好されているが、人殺しの本を読んだからと言って、その人が現実の生活の中で殺人に対する嗜好を持っている訳ではない。もちろん現実に殺人を計画中でもない。むしろ推理小説を愛読する人というのは、バランスのとれた健全な生活をしており、しかもその人の生きる社会は平和であることが前提になっている。砲弾飛び交う戦場や、地震直後の被災地などでは、人は推理小説など読まないのが普通である。
 もちろん数年に一度、或いは年に数度、推理小説の手口を真似た殺人を犯す人が出るが、それはむしろ人間の精神の世界と、現実の世界とを分離して考えられない未成熟な人格を表している。
 若し現世に悪の匂いがなかったら、どんなに世の中は浅薄なものになるだろう、と私は考えている。悪の概念こそ、人間に陰影を与え、人間に責任を取らせ、人間を解き放し、人間を共同の罪の意識で温かく結びつけるのである。すべての文学作品は善と同時に悪がテーマである。オペラが道徳性を要求し出したら、ほとんどすべての作品は抹殺しなければならない。「アヘンを香水の名前にするのは、中華民族を尊重していない」という言葉は、社会主義独特のものだ。アヘンであろうが何であろうが、実在するものは実在するのだ。それを避けて通ることはできない。その実在を正視することから、初めて私たちは歩き出すのである。
 アヘンでもポワゾンでも、この場合イメージと現物は明らかに分離している。ほんとうの毒なら、フグの毒であろうが、青酸カリであろうが取り締まらねばならないが、言葉はどれだけでも遊べるし、実害がない。嫌だと思えば、それを使わねばいいのだし、その言葉を発する人やものから遠ざかる自由もある。
 
 最後に手短かに、先週の「イスフィールオピニオン」の欄で、「日経ビジネス」編集長・小林収氏が書いている不明確な点に、再度お答えすることにする。
 氏は「競艇があくまで各地方自治体によって開催されている以上、日本財団は自治体からの交付金、すなわち公的なカネをもらい受けて、財団運営の財源としているのです」と書いているが、この金は地方税として市民が納めた税金ではない。全く別枠のものである。
 例をあげよう。府中市の収入の中には競走事業特別会計というのがあり、それは一般会計とは初めから明確に区別されている。
 まだ概算しか出ていないが、平成十一年度の場合、府中市に入る舟券の売上だけで九百三十億円余り。そこから決められた通りの配分の比率によって日本財団が受けるのは三十一億三千百二十七万三千円となる計画である。
 舟券の売上が減って来ているので、状態はかなり変わって来ていると思うが、本来、舟券の売上から必要経費を差し引いた残りの部分は、すべて地方自治体の歳入にプラスされるように計画されているのである。言葉の上では地方自治体の「交付金」だが、もともとのお金はモーターボート競走法による特別会計の枠の中の一部なのだから、地方税などの形で国民から徴収した公的な金は、やはり一円も使っていない。
 小林編集長は「日本財団が公的なカネを使っていないのなら、(笹川一族の)世襲批判などは起きるはずもありません」と言うが、金は一万円でも自分のポケット・マネーでない限り、道徳的に「公的な金」だと私は思っている。政府や地方自治体の金だけが公的な金だと思っているから、最近の一連の財界の腐敗も起きたのだろう。
 



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