共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 海の大国・インドネシア記(1) 神々の島「バリ」  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/08/夏期特大号  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ハビビ元大統領と
 日本からインドネシアまで週に二十便以上も飛行機があるが、まずバリ島の州都デンパサールに着陸する。ここからさらに一時間四十分飛んで、この国の首都ジャカルタに入る。バリを経由しないジャカルタ直行便は、成田発の一路線しかない。
 バリはそれほど日本人にとって人気のある観光の島なのである。私の海外行きは、ほとんど仕事がらみのビジネス・トリップである。だから「バリ観光に出かけることはまずあるまい」と思っていたのだが、思わぬ仕事が舞い込んだおかげで、十二日間のインドネシア出張の最初の二泊をこの島で過ごすことになった。
 二〇〇〇年の二月の話である。インドネシアの元大統領、ハビビ氏のジャカルタの事務所に、会見を申し込んでおいたら、「バリで家族ぐるみで静養中」とのことで、途中デンパサールで、飛行機を降りたのである。「インドネシアは島嶼国でなく、海の大国(Maritime Continent)である」。そういう持論の持主と、日本のシーレーン(海の石油航路)について意見を交換するためであった。その話は、ここでは省略する。この読み物のテーマは、「南国の島、神々のバリ」である。
「バリに来るなら、七月がベスト・シーズンだ。ここは、南半球だからね。オーストラリアが冬になると一番過ごしやすいんだ。デンパサールの二月はちょっと蒸し暑いだろ」と彼は言う。「それなのに、何故、バリ島にこの時期に……」余計な質問をしたら、「ジャカルタは大気汚染がひどい。妻がぜんそくなんだ」とハビビ氏。ここ一カ月、政争のジャカルタを避けて、大統領時代の何人かの元閣僚と共に、この島に滞在していた。「あそこはPolitical Pollution(政治汚染)もあるしね」。元官房長官氏が苦笑しつつ、そう言ったのである。バリは、やはりこの国の政治家にとっても別天地であるらしい。
 バリの文化は、たった三キロしか離れていない現代のジャワと比べるとかなり異なっている。ここ数世紀、インドネシア全土が急速にイスラム化する中で、四国の半分くらいしかないこの島は、古代インドネシアそのままに、ヒンドゥー教がそっくり残っている。三百万住民の九〇%がヒンドゥー教徒である。「バリ」??。昔はサンスクリット文字で書かれていたというが、今はローマ字でBaliと書く。
「詳しくは知らんがね。“バリ”というのは、ヒンドゥー教の神の名前らしい」。ハビビ氏の側近がそう教えてくれた。
 帰国後、書物で調べてみたが、やはりそうらしい。英国で出版された「Teach Yourse If Hinduism」(独習・ヒンドゥー教)には、ヒンドゥー教の神話の中に、Baliという名の悪魔がいて、三界を支配していたとある。ヒンドゥーの三大神のひとつヴィシュヌ神の化神であるVamanaという「一寸法師」が、Baliのところにおもむき、「私が三歩歩けるだけの土地をください」と言った。Baliはせせら笑って「おお、やるとも」とおうようにうなずいた。突如としてVamanaは、巨大な神に変身、この悪魔の王を蹴とばし、冥界に追放した??ということだ。日本の伽話の鬼をやり込めた「一寸法師」の元祖は、古代インドの神話である。
 話を元に戻そう。私のインドネシア行きは、白石隆・京大教授と一緒であった。同氏は、表看板は政治学者だが、文化人類学、歴史学にも造詣の深い世界有数のインドネシア学者であったことは、僥倖であった。
 
ヒンドゥー教はなぜ残ったか
 イスラム教国、インドネシアで、なぜバリだけがヒンドゥーの神々の島なのか。ハビビ氏の勧めで“神々の楽園”の現地ツアーをやることになったが、その前夜、ホテルで、白石さんを相手にそれをテーマに座学をやることができたのである。
 紀元、一、二世紀頃から、モンゴロイド系の先住民(中国南部やベトナムからやってきたらしい)の住むジャワ島に、五世紀にインド人の商人がやってきた。そしてヒンドゥー教をひろめた。それがインドネシアの古代史の始まりでいくつかのヒンドゥー王朝が誕生した。
 では、イスラム化したのはいつ頃か。十五世紀、イスラム教が、マラッカから船でやってきた。スマトラ、ジャワに、いくつかのイスラム王朝が出現、千年続いた古代ヒンドゥー王朝を圧倒した。ジャワにはマジャパヒト王国があった。華麗なヒンドゥー文明を誇っていたが、イスラム王国連合軍に滅ぼされ、十五世紀末、その一部がバリ島に逃れた。ジャワとは海を隔てた島であったのが幸いして、かろうじてイスラム化を免れたのである。
 翌朝、デンパサールからウブド(慣習の村)に向かう。ヒンドゥー教の総本山のあるこの島最高峰のアグン山(三一四二メート)の途中にある。王宮の跡がある。ウブドをはじめバリの神々の文化を世界に紹介したのは、十八世紀から、徐々にインドネシアを植民地化したオランダであった。
「オランダ人が、バリに初めてやってきたのは一九〇〇年です。宗教、自然、人々の暮らし、伝説に驚きの目を見張った。そしてバリを“南海の楽園”と欧米に宣伝した。一九二〇年、フランスのパリで開催された“世界植民地博覧会”にバリの王が連れていかれました」
 現地で、ガイド兼通訳に雇ったSachikoがそう言った。彼女の容貌と服装から察して、日本語のやたらに上手なバリ人だと思ったら、バリ人の夫をもつ、日本人、“幸子”さんであった。
「西洋から絵描きさんが大勢やって来たんです。上半身は裸の女性、頭にモノを乗せるので自然に豊かになった胸、そして神秘的な儀式。すっかり魅入られてしまい、儀式の踊子たちと結婚して、この島に居ついてしまったヨーロッパ人画家が大勢いたんです」。ウブドは“絵の町”とも言われる。バリの伝統的な絵画は、上が遠くて、下が近い??それだけの画法だが、欧州の画家たちがこれに遠近法をもち込んだ。バリの絵には、隙き間がない。「隙き間に悪魔が入る」と信じていたからだ。バリの人々は、土着のバリ美術と西洋技法を巧みにミックスして独自の画法を確立した、という。
 
バリの日本人妻
 この島では、ヒンドゥー教と土着の精霊信仰の産物である通過儀礼が忠実に守られている。冠婚葬祭だけでなく、出生、割礼、妊娠etc。諸霊に食物をささげ、村人が大勢集まって共食する。そのたびに日本のODAで建設したという舗装道路は大渋滞。ウブド旅行は、先を急ぐ旅人向きではない。
 アユン河渓谷を見下ろすチャハヤ・デワタ(神の光)ホテルで昼食をとる。渓谷の両側には、水田が、段々畑状に作られ、天まで届いている。時がゆっくりと流れる。「昔のバリの暦には一年という概念はなかった。月という概念もない。あるのは三十五日間という単位だけだった」と同行のワルデマン元教育相。「モノ・シーズンの自然環境だから季節感がない。だから三十五日の循環だけで暦は十分だった」と言うのだ。だから、この島で老人に年齢を聞いても無駄だとも教えてくれた。
 バリの家屋には、必ずといっていいほど庭に小さな祠(ほこら)があった。「敷地の三分の一が家、三分の一が庭、そして三分の一が神様の場所になっている。そうしないと悪魔が入ってくると信じているからだ」と幸子さん。彼女の家もそうなっているという。彼女の夫は、外資系ホテルのマネージャーとのことだ。「日本の男性と比べて、どう思います」と水をむけたら、「日本の男より、バリ人の男は妻にはるかに優しい」と即答した。バリには、十数人の日本人妻がいるが、みんなそう言っていると彼女はいう。「でも計画性がない。子供(彼女には大学生の長男がいる)の将来計画を相談しようと思ってもいっこうに乗って来ない。三十五日間のバリの暦の文化が、DNAに組み込まれているのかも。時は永遠に流れるのだから、あくせく計画など立てないという哲学よね」と付け加えた。
 帰路、日本の賠償で建てたが、火災で全焼、ようやく再建されたという五つ星ホテル(Grand Bali Beach)に立ち寄る。不思議な部屋を見学した。全焼のホテルで、奇妙なことに一室だけそっくり残ったという三二七号室で、改築後もこの部屋だけは手をつけずに保存されている。
 長期滞在の女性の部屋だったというが、「神の化身でした」とマネージャー。特別に中に入れてもらったが、カーテン、鏡、家具、ダブルベッド、そして彼女の所持品が、煙ですすけてはいるが、完全に残っていた。祭壇がしつらえてあった。
「まさに神々の島バリ島。でも霊だらけでちょっと気味が悪いね」と幸子さんに感想を洩らす。「そこがバリ島の魅力よ。この島には“気”が漂ってるの。大阪万博の頃、初めてこの島に旅行者としてやってきました。以後、そういう“気”に誘われて、何度か訪ねるうちに、とうとうバリの人間になってしまった」。幸子さんは苦笑する。バリの日本人観光客は、リピーターが多いそうである。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation