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いいにせよ、悪いにせよ、インドでは時の流れはゆったりしている。空港の出発手続きもゆっくり、飛行機はしばしば遅れる。遅れたからと言って、人生が中断するわけでもないのだ。 だから、私たちは空港の食堂に行って、どんなものを取っても四百円を出ない軽食を注文して時間をつぶす。まずチキンサンドイッチ、次にサモサと呼はれる安い野菜のコロッケ(ただし皮は揚げギョウザ風)、更にトリの唐揚げふうのもの、というぐあいだ。 しかしかわいい顔立ちの食堂の給仕係の若者は、どうしても二つの注文を覚えられない。サンドイッチを持って来ると、トリの揚げものは忘れている、という感じだ。ものごとは一つずつなのである。彼がしんけんに働いていることは顔つきを見ればわかる。 ビジャプールの職業訓練所は、学校からドロップアウトした子供たちのためのものだった。親が高利貸しから僅かの金を百二十パーセントくらいの利率で借りて返せないでいると、借りた父親だけでなく、子供の彼らも労務者になって働きに出ることを高利貸しは要求する。もちろんこれは違法なのだが、高利貸しは警察を金で懐柔しているから訴えられることはない。十六、十七歳でムンバイ(ボンベイ)まで土木の労務者として働きに行った子は、道端で寝たり、親方の用意した小屋に泊ったりして最低の食費をもらうだけで賃金らしいものは手にしていなかった。彼の場合も時間は止っていた。自分の目的がないからである。この少年は十八になっていたが、今でもあまり笑わない。 十五歳の少年は、八歳の時から学校へ行かなくなった。親が五、六頭の山羊と羊を持っていたので、一日中その群を追って岡を歩いていた。もっと多くの家畜を飼うのなら、経済的効果が出るのだろうが、五、六頭というのは、一家が生きて行く生活を支えるだけのことである。生活がよくなる望みは全くない。 職業訓練所の隣には、元ハンセン病患者だった人たちが住んでいた。今は病気ではないのだが、まだ薬のなかった時代に指や足や視力を失った人たちである。 彼らは、男たちだけ五、六人が大きな木の下蔭に作られた石のベンチにたむろしていた。一日中、やる仕事がないのである。足腰立つ人たちは村を出てしまった。彼らは金がないから、外出もできない。外出もせず、外出の予定もなく新聞も読まなかったら、話の種もないだろう。 連れて行ってくれた神父は、せめて彼らにテレビが一台あれば、と言う。レンガ造りの雨の漏る長屋や、苔の壁と椰子の葉で葺いた屋根にビニールをかぶせた粗末な小屋に住む人たちは、何十家族、もしかすると、百以上の家族の単位で住んでいるのに、誰一人としてテレビを持っていないのだ。そして村の老女は、私たちの挨拶に応えて合掌してみせるのだが、その後で素早く金をねだる。今日が何月何日だろうと、彼らには関係ないだろう。時は、彼らの社会ではなかなか経過しないように見える。
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