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夫は老人になって、いよいよイジワル爺さんを演じることを趣味と思うようになった。まだ背中もすっきり伸びているし、歩くのも早いし、ご婦人の荷物へお持ちしましょうというささやかなダンディズムも残っているが、時々、ジジイの楽しみがある、と思っているらしい。 或る日、一人で家で原稿を書いていたら、玄関のベルが鳴った。出てみると見知らぬ証券会社の若い青年が「外国投資のお勧めに来ました」と言った。 昔から電話でもこういうことを言われると、夫は「ボクは儲けるのが嫌いなんです」と答えていた。「どうしてお嫌いなんですか」と言われると「どうしても嫌いなんです」と機嫌よくにこにこ答えるのである。 今日は戸を開けてしまったので夫は尋ねた。 「君は僕に外国の投資を勧めに来たというけど、今日現在、シンガポールのドルはいくらか知っていますか?」 気の毒に相手はどぎまぎした。 「い、いえ、知りません」 「じゃあ、中央アフリカの共通通貨は何という単位かは知ってますか?」 「いえ……」 「じゃ、もう少し勉強しなさい」 本当は夫はそれしか知らないのである。シンガポールから帰ったばかりだったから、一ドルいくらか覚えていた。女房が象牙海岸、ブルキナファソなどという中央アフリカの国へ行くに当たって、通常「セーファー」と呼ばれる中央アフリカ・フランをどこで調達すべきかなどと言っていたのを無責任に聞いていたので、たまたま貨幣単位も記憶していたが、その近隣諸国のこととなったら、実は全く知らないのである。 夫としては、仕事中を玄関まで呼び出されたことには少し気を悪くしている。私と違って仕事を始めたら二、三時間は人が喋りかけても返事をしないほど集中する性格だからだ。しかし不景気の時代に、こういう青年が一生懸命セールスに歩いていることには同情している。全く世間というものはうまくいかない。お互いの立場は簡単に対立する。 その青年はかわいそうに一日気分が悪かったろう。しかし私は教えてあげたい。少々のことをやたらに本気にしなくてもいいのである。テキは大したものではないのだ。 もちろんそれをきっかけに彼が世界中の通貨のことを勉強しようと思うなら、それもすばらしい。何しろうちの近くの大銀行の支店は、ドル、ポンド、マルク、フランス・フランくらいまでは知っているのだろうが、九億八千万人もいるインドのルピーが昨今大体幾らかは知らなくて平気である。私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOはその銀行に口座も持っているのだが、インドからの申請の額が日本円で大体幾らになるか知ろうとして問い合わせてもわからないのである。こういう怠け者の多い社会で生き延びるのは、比較的簡単であることも教えたい。
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