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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 枝垂れ梅の下で  
コラム名: 私日記 第17回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  二〇〇一年二月二日

 友人の舞踊家、大れい子さんお昼御飯に来訪。ご主人を亡くされて呆然としておられるのだろうが、明るく振る舞っていらっしゃる。遺品の演劇関係の資料をどこに贈るかの相談。人は何があろうと生きて行かねばならない。

 

二月三日

 大和正道氏(従兄)来訪。例年税金の申告を代わってしてくれる。私は税金の申告に気をとられたりすると、小説が悪くなるような気がしている。どこにいくら出した、といちいち記録したり覚えたりすることは、確実に文学を悪くするのだ。しかし納税の義務はあるから、この従兄にずっと申告をしてもらっている。この人も私の無能の一種の被害者である。七十五歳になっても、まだ私を庇ってやらねばならない、とこの人は思っているのだ。

 夜、フジモリ氏と、手記の執筆を手伝っているリスコ氏と豆まき。

 

二月四日

 早朝、秘書の堀川省子さんと沖縄へ。ハーバービュー・ホテルで、救急医療センターで働く武永賢氏と会う。省子さんの観光を武永さんに頼んで、私は午後「沖縄タイムス」主催の講演会。

 終わって武永さん、省子さんと合流。武永さんの職場を訪ねてから少し町を歩く。かなり暑い。沖縄のガラス細工も陶器も漆器も、明らかに昔より技術がお粗末になった。どうしてだろう。それで観光土産として売れるのだろうが、私の家には、昔ごく普通に町のお店で買えたもので、ずっとずっと技術のいいものがたくさんある。当時はまだ沖縄へ来るのに、米軍の渡航許可証が要り、ノースウエスト航空に乗らねばならなかった。

 沖縄の塩豚を買いたくて市場に連れて行ってもらう。これは絶品。冷蔵庫もない時代から作っていた塩蔵豚肉だが、豚の味が絶品なのである。

 町の小料理屋さんで夕食を食べて、ホテルに帰る。武永さんはまもなく東京に帰任されるから「今度は東京でね」と言って別れた。

 

二月五日

 午前十時四十分、羽田に帰着。昨日余り暑くて汗をかいたので、家に寄ってちょっと着替えをして、越中島の東京商船大学で講演。財団に帰って雑用をすませてから四時半、警視庁に野田警視総監を訪問。東京都と合同で企画中の障害者が参加するマラソンについてのご説明。総監室を出てエレベーターで一階に着いたとたんに方向がわからなくなり、通りがかりの人に出口を聞いた。警視庁の中で道に迷うのは、何となくぶざまなものである。

 

二月六日

 朱門とシンガポールヘ向かう。

 ここのところ、大分忙しくて二人共疲れてしまった。それならうちで寝ていればいいと思うのだが、うちは家とオフィスがいっしょなので、どうしても心理的に休まらない。ひたすらシンガポールでごろごろするのが目的。夜七時過ぎにナシム・ヒルの家に着き、日本から持参の梅干し入りのおにぎりに、これも持参の佃煮を載せて食べて、すぐ休む。ベッドはこの土地ではインドの人が使う固いもので、体が沈まず、涼しくてこの上なく気持ちいい。やっと休める、と思う。

二月七日〜十三日

 真っ先に中国系のデパートヘ行って、田七人参を買った。一月分を日本で買うと、高いもので九千円、安いものでも七千円という薬が、ここでは一月分たったの二百円。売り場で思い切って、「いつも買いに来てるのよ。いつかはミセス陳といっしょだったのを覚えているでしょう? だからあの時と同じに一〇パーセントは安くしてくださるわね」と言ってみたら、ほんとうに引いてくれた。何しろ知人の家族の分まで五十瓶も買うのだから当然。朱門は「女はずうずうしいなあ」という感じで見ている。

 二日目には、ホーランド・ビレッジのショッピング・センターの三階の美容院に髪を染めに行った。中国系の美容師さんと親しくなっているのである。髪の色は、自毛と同じ色でなければいけない。「黒なんだけれどすばらしいきれいな漆黒はだめよ。私は子供の時から、赤茶けた黒だったの。少し埃がかかったような、砂をまぶしたような汚い色にできる?」と交渉して、やっと独特の色を見つけてもらったのである。そこでもっぱらオーストラリアの女性雑誌を読む。私たちはオーストラリア文化圏に触れたことがないので、広告でも何でももの珍しいのである。

 三日目には同じホーランド・ビレッジに行き、安売りをしている民芸品屋で、インドの絹のクッションで丸い形のものを買った。昨日、刺繍もついているのに安いなあ、と思って見ていたのである。店のおばさんが、中身も二百円だからお買いなさい、と言う。中身で丸い形にきちんと寸法も合わせて作ってあるのなんてなかなかないから買うことにした。

 家では、毎日毎日『世界の名著』を読んでいる。このマンションには、日本のようにたくさん本がないから、あるものを読むしかない。杉田玄白、山鹿素行、新井白石、伊藤仁斎、本居宣長を斜め読みにする。しかし不思議と、記憶したいところはちゃんと眼に入っているからおかしなものだ。山片蟠桃は実生活でも番頭だということは知らなかった。蟠桃というのは仙境にできる桃の実で、食べると不老不死になるという。

 本居宣長の『新古今集美濃の家づと』の中で、慈円大僧正の本歌取で「散はてて花のかげなき木ノ本にたつことやすきなつ衣かな」という歌にめぐり会う。あまりにいい歌なので、眠っていた朱門が眼を覚ますのを待って「ちょっと聞いてよ」と読んで聞かせた。慈円大僧正さまが生きておられたなら、ファンとして夏衣のお姿を見に行きたいところである。

 東京の河野外務大臣からお電話。外務省の機密費を使い込んだ人のことは、こちらであまりニュースを追えていないのだが、機構改革をするから、会議に出るようにとのご要旨。

 日常の暮らしでは、昼間はせっかくだから必ず外食をしている。二、三千円で、広東か上海料理。タイかインドネシア料理。こんなに安くてこんなにおいしいから、日本に帰るともう中国料理は食べなくなってしまった。

 その代わり夕食は必ず自宅で手料理。私の気晴らしは料理、と言うと体裁はいいが、どれだけ簡単においしいものが食べられるか、ということ。沖縄から買って帰った塩豚を塩出ししてからキャベツと煮たりしている。

 

二月十四日

 帰国。家に着いてから、指圧の先生に来て頂く。飛行機に乗るとよく背骨が曲がるので、すぐ矯正しておく習慣になった。

 

二月十五日

 十時、日本財団で執行理事会。

 十一時、外務省。松尾元室長の機密費流用問題について機能改革会議を発足させることについて。

 外務省は、もともと不思議な省であった。皆がいやいや仕事をしているとしかみえないのである。何か催しをやる時、会議が外国で行われる場合でも、人の都合は最後の最後まで一向に気になさらない。曽根綾子さまと書いて来たこと二度(実はこんなことは一番どうでもいいことなのだが外務省がやったのでびっくりして覚えているのである)。電話その他の連絡方法が一際手際が悪くしかも不遜な態度。電話の声の機嫌の悪さはうちの秘書たちが恐れをなしている。アメリカの某国の大統領に、来日二日ほど前まで夕食会の予定も知らせなかった。大統領府にも在日大使館にも通知していないので、私たちの財団が大統領をその晩は歌舞伎にお招きしましょうということで切符のアレンジまでしたところで、外務省は「その日はお招きしてますよ」と平然と割り込んだ。しかしその時点でも招待状は出していなかった。アメリカに対してもこういうことはやるのだろうか。アフリカだと差別して手を抜くのか。その他いろいろ……。

二月十六日

 二十年以上うちで、私の代わりに「奥さん」役をやってくれた吉田みさをさんを八王子の近くのホームに見舞う。手は少し震えるけれど、元気で相変わらず美人。ホームは六人で一軒のおうちを作っていて、お料理の上手な方は食事作りを手伝うのだそうだ。みさをさんの蓮根のお煮つけなどは、今でも私の友人たちが食べたいと懐かしがる。ホームでもお料理を作って上げて、皆を喜ばせてあげるように。

 どこか少し遠出をして御飯を食べようと思ったのだが、足が悪いので車椅子の使える所がいい、と看護してくださる方も言われるので、近くのファミリー・レストランに行った。ここなら斜路もあるが、私は毎年車椅子の方たちと旅行しているので、みさをさんは歩けると睨んだ。少し気の毒かもしれないけれど、レストランでは車を下りてから、私と手を組んでテーブルまで歩いてもらった。やっぱり歩ける。トイレまでも大丈夫。これで今日は少なくとも五十歩は歩くことになる。おすしや茶碗蒸しやあんみつなどいろいろ食べて、ほんとうに楽しかった。

 

二月十七日

 飛行機で福岡往復。北九州国際交流協会の講演のため、八幡まで行く。鉄の町もずいぶん変わった。

 

二月十八日

 朱門と国立劇場。

 風邪薬を飲んで来たので少し眠くなる。これでニカ月間風邪引き。

 

二月十九日

 お昼にホテル・ニューオータニで、内外情勢研究会の講演。帰りに栗林商船の栗林定友氏が日本財団にいらして、氏が考案された作業中もじゃまにならない救命ジャケットの試作品を見せて頂いた。

 三時、警視庁警護課がフジモリ氏のことで日本財団まで来てくださる。近々フジモリ氏は新居を決めて移られるので、長い間のSPの警護も解除になる。お互いにお礼。ほんとうにこの三カ月間、何の事故もなく、警察の方たちともいやなこと一つなく、ささやかな運命共同体の意識をもった瞬間もあった。しかし前代未聞なほど警察の警護が長期になったことを考える時だけ、私はフジモリ氏をお迎えして悪いことをしたような気がしていた。

 夕方、中曽根元総理の事務所。フジモリ氏ご移転までのご報告をする。夜は大学受験に来た孫と、日比谷のてんぷら屋さんで食事。

 

二月二十日

 午前中、「船の科学館」で日本財団が贈る福祉車輛の説明会。日本の各地から、車椅子ごと乗り込める福祉車輛を受け取りに来てくださった方々に感謝を申しあげる。ご挨拶というものは短いほどいいと思うのだが、今日は少し長めにしろ、と言われてしまった。

 十二時から昼食のライスカレーを食べながらの執行理事会。一時半、国際協力関係の案件説明。三時、『婦人公論』のインタビュー。四時半、河出書房新社。

 七時からエッセイを連載している『週刊ポスト』の編集部の顔なじみと会食。

 

二月二十一日

 朝八時半から十時まで、外務省飯倉公館で第一回機能改革会議。政府の審議会が始まる時にはたいていこうした朝の会議になる。そうでもしなければ、誰も出席できないのである。

 夕食に大れい子さん。

 

二月二十二日

 やっと一日休み。がっくりして一日ぶざまに何もろくなことをせず暮らす。

 

二月二十三日

 九時、六月に移転予定の新社屋に関する打ち合わせ。と言っても古いビルを買って内装を改装中である。

 十一時、予算決定に関する評議員会。

 午後三時、池上の本門寺の近くで「市民精神保健福祉大会」の講演。お参りをして行きたいと思ったけれど、その時間がない。

 夜、銀座のワイン・バーで、町村文部科学大臣を囲んで、教育改革国民会議の「その後の集まり」。会費を払った。

 

二月二十四日

 今日、フジモリ氏はご移転、のはずだったが、新居の家具にまだ整わないところがあるので、もう一週間、時々この家を使っていいかと言われる。どうぞどうぞ、と申しあげる。しかし今日最後の荷物を大体運び出します、と言われた。

 昼過ぎにはお発ちだと思っていたが、私がNHKの『サンデー・トーク』の録音から帰って来てもまだいらした。もう暗くなってからご出発。ご新居はどこかよく知らないのだが、SPはそこまでお送りになり、到着の知らせと同時に機動隊も引き揚げられる手順だという。「黙ってお帰りにならないでください」と申し上げておいたので、夜の暗がりの中で、家族で機動隊の車をお見送りできた。

二月二十五日

 日曜日だが、日本財団の仕事の調査。財団は「アジア友好の家」にお金を出しているが、その責任者、木村吉男・妙子夫妻と赤髭ドクターと言われる中木原和博先生を、西武新宿線の中井駅前のクリニックにお訪ねするのである。

 ミャンマー人はコンテナなどに詰め込まれて密入国という形で日本に入る。そして劣悪な労働条件の中で、十二時間も働くので(作家は多分もっと働くが、労働環境が劣悪ではない)結核やエイズにかかる。健康保険もないのだから、高価なエイズの薬をまともに飲むことはとても不可能だ。本国送還の費用を仮に誰かが出すとしても、ミャンマー政府は、国外に出た自国人が月に日本円にして一万円ずつ税金を納めていないと、帰国を許さない。これはもちろん冗談だが、再びコンテナに詰めて密帰国させることを、誰もが一瞬考える。しかしミャンマー人は自尊心が強いから、なかなかそんなことに同意しない。

 ミャンマー人の家庭を二軒訪ねた。どちらも一間きりの安アパートだが、恐ろしく家賃が高い。押し入れなしの六畳に家族三人が寝ているから、壁の周囲はすべて物置になっている。台所は二畳くらい。その奥にトイレとお風呂があるだけで六万円だという。

 

二月二十六日

 午前十時から十二時まで、厚生科学審議会。

 二時から四時まで、日本財団でボランティア支援部事業説明。四時半から日本財団理事会。後、六時から聘珍樓で理事・評議員合同懇親会。

 

二月二十七日

 十時半、日本財団執行理事会。

 十一時半、ボランティア支援部事業説明。

 

二月二十八日

 九時、飯倉公館で外務省機能改革会議。

 その後、ひさしぶりに三戸浜に行く。

三月一日

 連載が終わった『狂王ヘロデ』を本にするための読み直しを始める。これはかなり手間の要る仕事。何日かかることか。しかし急がねばならない。

 庭にこの寒さの中で極楽鳥花が咲いている。ここのところずっと迷った末に、庭の松の木をやはり切ることにする。朱門も賛成。松はお金と人手がかかり過ぎる。

 

三月二日

 一日中ずっと仕事。夜、フジモリ氏、帰国したリスコ氏と交替したオルレリアーナ元報道官とご到着。この前の雪の日に来られるつもりだったのだが、車が動かなかったので、やっと今度はいらっしゃれた。

 

三月三日

 午前中、少し村の中をお歩きになりませんか、とフジモリ氏をお誘いした。こういうことがほんとうは大好きでいらっしゃるのだ。オルレリアーナさんは寒いので家に残られた。

 村の道を歩くと、まず大根を機械で洗っているお宅の前を通りかかったので、ご挨拶してよく見せて頂いた。何年使っているか、機械はいくらしたか、壊れないか、といろいろお尋ねになる。それから村のお寺に立ち寄った。若い住職にお会いしたので本堂に入れて頂いて、また詳しく説明を受けた。関東大震災の時、本堂が倒壊したが、その時まで使われていた鬼瓦もよくごらんになった。漁協の売店で喉飴を買われ、それから車で地酒を買いに行った。するとそこでも店のこしのかんぱいご主人がすぐ「フジモリさんですね」と言って「越乃寒梅」を一本くださった。お金を、と言っても「友達からもらったものですから」とどうしてもお取りにならない。

 それから私が、鳥避けの網の繕いをするのにたこ糸を買いに寄った店で、よほどおもしろいと思われたのだろう、いろいろと雑貨の買い物をなさった。後でわかったのだが、ご長男のヒロさんの下宿住まい用だった。

 

三月五日

 今日は柔らかな日差しの春の日。今日ほんとうにフジモリ氏は、ご新居に行かれる。昨夜ご自分で共同と時事と二つの通信社に電話されたそうで、朝九時に、記者とカメラマンが数人現れた。

 我が家の庭にまだ若い枝垂れ梅があるが、それが今日を祝うかのように鮮やかな八分咲きの花を見せた。昨夜、朱門がお別れの夕食会の時、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」の話をした。まるで歌舞伎の舞台から盗んで来たような枝垂れ梅の前で記念撮影をした。田園調布署の山崎成太郎署長は制服を着ておられた。私も着物を着て、梅の帯を締めた。

 我が家のお客さまは、百四日ご滞在になった。ともかくお元気で、徹底して質素に、遊びの気分は皆無だった。そして決して撤退の気配は見せられなかった。

 私たちはたった一つの目的を果たせたのだ。ペルーの日本大使公邸人質事件の時、二十四人の日本人の命を救って頂いたことに対するお礼である。それ以外何もない。

 ほんとうは門でお発ちをお見送りするのが礼儀なのに、どうも現実はうまく行かない。あちらはまだコンピュータの始末が残っていると言われ、私は姫路に出かける時間が迫っていた。

 フジモリ氏は、私たちには読めないスペイン語で書かれた一枚の紙を残して行かれた。そこにマスコミが氏に連絡したい場合のファックス番号が書いてあるらしい。もし留守中にマスコミから電話があったら、この紙のことを話し「『ご必要でしたら、ファックスでお送り申しあげます』とどなたにでも言えばいいのよ」と秘書に言いおいて私は門を出た。
 



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