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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ジャフナ?地獄と天国が併存する  
コラム名: 自分の顔相手の顔 195  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/12/07  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   日本人は、自分が望めば国中どこへでも行けると考えている。もちろんいささかのお金を用意し休日を取らねばならない、ということはあるが、後は自然条件だけ。それでも冬山の愛好者は、私などが考えるだけで震え上がるような厳寒の山へ登る。つまり私たちはどこへ行く自由も確保しており、それが当然と思っているのである。
 しかしそうでない国はいくらでもある。
 先日スリランカへ行った。コロンボ周辺は今は穏やかな空気だが、北部のジャフナという土地のことになると、皆顔を曇らせる。反政府組織「タミール・イラーム解放のトラ」というゲリラの根拠地になっていて危なくて行かれないのだという。
 私は初め、それは私たち外国人を危険に遇(あ)わせないためのおおげさな警告かと思ったが、どうもそうでもない。その夜、私はまだ見ぬジャフナを想って詩を書きつけている。

  ジャフナ
  お釈迦さまがいつも微笑するスリランカの北の半島。
  死んだインコの伸び切った首の形という人もいれば、
  それこそ牙を剥いた虎の横顔という人もいる。インド洋に突き出した半島  の目玉のような港、ジャフナ。

  ジャフナには、もう誰も行けない、とガイドは首を振りながら言う。
  陸路を行けば狙撃され、
  海路を行けば船ごと捕獲され、
  空路を行けば撃ち落とされる。

  昔ジャフナは静かな田舎、
  ジャスミンの花はもれこぼれ、
  子どもは戸外で月と眠った。
  今なお月光の流れる水田の静謐。
  泥田の中に立つ白鷺は神秘の純白。
  夢見れば豊饒の島。
  目覚めれば血まみれの地獄。

  ジャフナ? 今でも行けるわよ、と美容師は笑った。
  危険は知ってるけど、
  生きてたって死んだって、
  貧乏人は、大して変わらないんだから。

 スリランカは温和で豊かな自然に恵まれ、仏跡もたくさんあってすばらしい観光地である。紅茶もカレーもおいしいし、宝石も採れるのだそうだ。しかし一方で内戦で死んだり傷ついたりした兵士が何万人もいて、傷を負っても補償もなく仕事もなく生きている。そういう元兵士たちが、最近では犯罪の陰に存在するようになった。地獄と天国がこの世では併存するのだ。
 若者が傷つくのは、ほんとうにかわいそうだ。国の中にジャフナが存在し得るという悲劇を、日本人はほとんど実感していない。
 



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