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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 赤ちゃん戦争  
コラム名: 昼寝するお化け 第137回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1997/08/22・29  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今年の七月末は本当に忙しかった。海の日の関連事業で日本財団は国際海洋シンポジウム97を開いた。八月一日に中国に出発したので、荷物も詰めなければならない。
 その中でも、どうしても急遽開かなければならなかったのが、私たちの小さなNG0、海外邦人宣教者活動援助会の運営委員会であった。できるだけ急いでお金をください、という申請が重なっていたからである。
 先日ポリビアに行った時、私は宮崎カリタス会という修道会の日本人シスターたちが経営しているオガール・ファティマ子供の家に行った。昔風に言うと孤児院である。そこで働くシスター樫山からはいつか「子供のミルク代がありません。何とかしてください」と悲鳴が聞こえそうなファックスを受けたこともあった。
 こういう貧乏の形は戦前的である。昔は今晩炊くお米がないから、お母さんは着物を持って質屋に行った。今では今晩炊くお米がないうちなど一軒もない。
 オガール・ファティマ子供の家では昼ご飯には総勢百十人が食べると言う。もちろんミルクだけ飲んでいる赤ちゃんも含めてだが、それだけの人員が食べて、一月の経費は四十五万円だという。
 はっきりとは聞かなかったが、おそらく保母さんや職員の中には、昼ご飯が出るというだけで勤めている人がいるはずである。お弁当を作るのがめんどうだから、社員食堂を歓迎するのではない。家中に食べるものがない時もあるので、せめて日に一食、食べ物が確保されている職場はありがたいのである。
 ちなみに現在、世界中で、ほぼ最低賃金と見なされているのは、日給約百円=一ドルという水準である。一日一ドルなら月三十ドル。三干円ちょっと。それで家族五人から十人くらいまでが食べるのである。
 オガール・ファティマ子供の家では、赤ちゃんが始終肺炎を起こして入院するという話だった。そこへ連れて来られるまで……胎児の時からも、生まれてからも……栄養がよくないまま育ったので、抵抗力がないのでしょう、とシスターは推測する。それで日本から「先進国で生産されているミルク」を送ることにした。こういうまどろっこしい表現をするのは、この先進国型のミルクというのは、零月から六カ月までと、七カ月から満二年までと、それぞれの時期に必要な栄養がきちんと計算されていて、それを指示通り与えれば、かなり発育の遅れた子でも、四、五十日のうちには標準に追いつくというほどの奇蹟的ミルクなのである。もちろん他にどこの国でもカマスみたいな大きなサックに入った粉乳らしきものは一応安く売っているのだが、そういうミルクは、先進国型の厳密に必要な栄養を計算されたものとは全く効果が違う。
 日本人のシスターたちは、こういう質の悪いミルクのせいで、たとえ体重は一応あっても、赤ちゃんは病気に対する抵抗力がなくなってしまうのではないか、と考えているようであった。実は私は、経費は日本で私たちの組織が払い、現物は単価の安いオランダかベルギーから、オガール・ファティマ子供の家にミルクを送るようにした時、秘かに冷たい入れ知恵をしたのだった。
「シスター、ほんとうに嫌な考え方ですが、できれば赤ちゃんを二組に分けて、ヨーロッパのミルクと国産のミルクと、どちらの組にどれだけ病人が出るか、観察してくださいませんか。明らかにヨーロッパのミルクだと成長が違うというのだったら、喜んで送ります。けれど同じくらいの効果だったら、この国産の安いミルクを買って頂けばいいんですから」
 肺炎の子供が一人出ると、(もちろん病気の重さによって、数日で出て来る子供もいれば、二週間、三週間と入院していなければならない子供もいるだろうけれど)シスターはざっといくらくらいの特別出費を覚悟なさるのですか?と私は聞いた。すると、大体一万円だという。入院費はオガール・ファティマ子供の家の子だというので、ケースワーカーが安くしてくれている価格である。しかし付添いの費用がかかるので、最低それくらいは覚悟しなければならない。
 一月の総予算が四十五万円のところから、たちどころに一万円が入院費用に出て行くとなると、やはり痛いだろう。
 私はその場で、四十五万円の生活費のうち、毎月二十万円をお引受けするように努力しましょう。残りは、やはりポリビアの方たちが子供たちの幸福を考える方がいいから、と言ったのである。私たちの援助の方法の中に、予算の半額以内が望ましい、という不文律がいつのまにかできていた。全部出せても出さないことが多かった。一つにはそうすることで、私たちが「ああ、あそこの組織は、私たちがしてあげてるの」と思い上がらないためであった。それともう一つ、私たちの組織の経済的な力がいつかなくなる時、相手が私たちだけに頼っていて、決定的な打撃を被らないよう、危険を分散しておく意味もあった。

 まさか子供のものまで盗みはしない?
 私はミルクについても、シスターたちに結果を聞いて見た。果たしてシスターは、私のように冷たく子供たちを二組に分けて結果を見るなどというやり方はしていなかった。しかしヨーロッパのミルクを飲ませるようになってから、子供たちの入院回数は明らかに減っている、とシスターは言った。
「そうですか。それならお送りするかいがありますね」
 と私は答えた。
 さらに私は、私たちが送るミルクの保管をしっかりしてくださるようにとも頼んだ。そうでなければ、調乳する人が罐ごと盗んで、売るか親戚の子供にやってしまうだろう。シスターは毎日その日に使う分だけ戸棚から出して渡している、と言ったが、それでも安心はできないのである。誰かが見張っていないと、粉ミルクの量をごまかして薄いミルクを飲ませることだって考えられる。そしてそれが乳児に体力をつけない理由かもしれない。
 私が自己嫌悪にかられつつそこまで言うと、シスターの方もそのうち、調乳見張り役の日本人のボランティアを頼んでもいいような話をしたが、あれは私を安心させるためだったかもしれない。
 端切れを集めて作った寄付の子供服を、生理用品に使ってしまった職員もいた。それを犬がくわえて引きずっていたので見つかったのである。
 日本人は、まさか子供のものまで盗みはしないでしょう、というが、そんなことはない。貧しければ貧しいほど人は何でもする。それをわかった上で援助はするべきなのだ、とわかっているが、時々心が疲れることもある。
 



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