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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 勝者もなく、敗者もなく  
コラム名: 私日記 連載3  
出版物名: サンデー毎日  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 1997/04/06  
※この記事は、著者と毎日新聞社出版局の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社出版局に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社出版局の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   三月十日
 亡き姉、顔を見たこともない姉・幽里香の命日。そして昭和二十年には、東京の大空襲があり、叔父と従弟が空襲で亡くなった。あの日、太陽は朝になってもまだたちこめていた濃い煙の向こうで光を失い、中空でオレンジのように浮かんでいた。
 うちに逃げて来た叔母はまだ離ればなれになった夫と子供がどこかで生きていると思っていたが、煙で声が全く出なかった。
 午前中、現金書留で五十万円。三月六日に、私が二十五年間働いて来た海外邦人宣教者活動援助後援会の全会員の活動に対して、吉川英治国民文化賞が与えられることが発表された。それと関係があるのかどうかわからないが、五十万円の贈り主は、横須賀市に住む三浦仁美さんと三縄幸代さんという二人の姉妹である。六十五歳の父上、佐藤昭仁氏はこの一月腎臓癌で亡くなられた。その遺言状の中に、海外邦人宣教者活動援助後援会にも贈るようにと書いてあった、と言う。
 五十万円あると、粉ミルクが五十キロ買える。それで恐らく二、三十人の子供は栄養失調の死から救われる。実に単純だが、明快な事実。
 三月十一日
 昨年の夏以来、運輸省との間でくすぶり続けていたヤマト運輸前会長・小倉昌男氏の評議員就任を、運輸省が承認する旨の通知が来る。これで訴訟は取り下げということになった。
 私は裁判費用を出すのが惜しいからほっとした気分もないではない。大切なお金は生産的な仕事に使わねばならない。運輸省の裁判費用だって、どういう人が弁護に立つのか私には想像もつかないが、いずれにせよ、人が動けばお金はかかる。それも国民の税金なのだから、裁判などに使わなくてよかった。
 このごたごたは、明らかに小倉氏が運輸省批判をしたことに対して、役所が「運輸省批判をするような人を評議員には認められない」と言い出したことにある。私たちはその言葉を何度も何度も聞かされたのである。しかし正当な手続きを踏んで開かれた理事会で議決されたことを、運輸省の勧告で撤回するなどということは、民主主義の原則では考えられない要求だから、やむなく処分取消の訴訟を起こしていたのである。
 十五日から外国へ出るので、連載をすべて書いて出て行かねばならず、ここのところずっと寝不足。朝から時計を見て「後、何時間起きて働くと寝られるのかなあ」という計算ばかりしている。どう考えても、上等で知的な人間の生き方ではない。
 夜は頭が使い物にならなくなっているので、推理もののテレビなどを見るのだが、私は大体、人が一人殺されたところで眠くなる。いいや、犯人が誰かは、明日の朝、夫に聞こう、と思っていると、夫はまだ人が一人も殺されないうちから眠ったそうだ。
 三月十二日
 午後三時から小倉問題に関する記者会見。
「運輸省が折れた、ということですね」
 というような質問があった時、ふとアラブのことを思い出した。私はアラブ的外交交渉の二つの鍵が好きだ。
 一つは「敵の敵は味方」というすばらしく明晰な戦法。これは今でもまだ、何にでも、かなり役に立つ。
 もう一つはすべての対立は「勝者もなく、敗者もなく」治めるのが最上という砂漠の民の知恵だ。これはただ面子を立てるというだけのことではない。どちらかが一方的な勝者で、対するものが敗者、などと決めるから、「戦争裁判は正当か」などという幼稚なことを論じなければならなくなる。勝っても勝った顔をしないことだ。また事実、人間に与えられた運命と時間は、人間の判断を超えて入り組み、複雑で予測もつかない。
 理事や評議員の年齢が、就任時に七十を超えないことが望ましい、という条件は、小倉氏を不適当という時に初めて運輸省側から提示されたことだが、誰でも若い人を立てたいという欲求は自然に持っている。しかし体験が必要なポストまで七十歳以上は年齢の故に除外するべきだということになると、明らかな差別だから、あくまでケース・バイ・ケースで行くべきだろう。「七十歳以下だってボケてる人はいくらでもいますしね」と言う度に、自分と他人が同時にギックリして笑い出している。
 後で朝日の記者氏が「こんなに穏やかに終わってザンネンですねえ。もっとごたごたしてくれればおもしろいのに」と言う。こういう正直な会話が出る空気がいい。一方私は小心に「これくらいのことで、いちいち記者会見なんかする方がいいんですかねえ。皆さんお忙しいのに」と近くにいたどこかの社の記者氏に聞いている。すると「それはやっぱりした方がいいんですよ」と教えてくれる。そんなものかなあ、と半ば納得。
 三月十四日
 四月八日に出発する十四回目の「障害者とのイタリア・イスラエル旅行」に今年九十六歳の女性の車椅子参加者があることを知らされる。普通の旅行社なら受け付けないだろうが、うちのグループは大歓迎である。実現すれば、すばらしいドラマだ。
 



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