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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 冠婚葬祭?義理で無理する年でもない  
コラム名: 自分の顔相手の顔 41  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/04/14  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   日本にも高齢者が増えるようになると、大勢の人が友達や知人の葬式に出る機会が多くなるということになる。葬式ばかりではない。孫の結婚式などというものに出られる老人は昔は稀だったが、今ではいくらでもいる。
 結婚式や葬式というものは、人によって出席をすることが楽しみな人と、そうでない人とがはっきり分かれるものだ。
 私はとにかく、仕事でもない限り人中に出たくない。ことに夜はうちでごろごろ怠けているのが健康の秘密、だと思っているから、結婚式とお通夜には出たくない。しかしその反対の人もいて、夜、どこかへはっきりした理由があって出かけて行き、そこでお酒の一杯も飲めるということになると、俄然張り切る人もいるのである。
 六十の定年を過ぎたら、いや六十五で老齢年金をもらうようになったら、いや七十を過ぎたら、(つまり幾つからでもいいのだが)もう浮世の義理で何かをすることからは、一切解放するという世間の常識を作ったらどうなのだろう。もう人生の持ち時間も長くないのだし、健康に問題が生じても当然の年だし、義理で無理をすることはない年なのである。
 私はカトリックなのだが「仏さまのご功徳」などという日本的表現も大好きである。昔の日本人は、普段はまともにお米粒を食べられない人も多かったし、貧乏で毎日晩酌など望めない人は、それこそいくらでもいたのだから、葬式や結婚式は、たらふくご馳走を食べ、へべれけに酔ってもいい得難い機会であった。御馳走より、お腹いっぱい米粒を食べられるだけで、幸せな人も多かった。殊にただ酒が飲めるなんて、こんな夢のような機会はなかなかなかったのである。
 自分の死によって、あまり関係のない人にも極く自然な形で幸せを与えられる。そういう機会は、願ったってそうそうあるものではない。よくはわからないけれど、南米の国などでは、知らない人の結婚式に、通りがかりの人が立ち寄って祝福を与え、ごちそうになっても当然のことらしい。それも幸せの分配の一つのやり方なのかと思う。

 高齢者を労るなら、好きな方を取らせたらいい。賑やかで人に会うことが好きな人は、どんどん出かければいい。しかしもう人中へ出ることが億劫になっている人には、義理を欠かせたらいい。

 生きているうちなら、見舞いに行くのも大切なことかもしれない。しかし亡くなった後では、魂はどこにでも遍在するのだから、考えようによっては何も葬式の場に行くこともない。家で祈ればいいことだ。

 人の結婚式に出て後が疲れてしまった。人の葬式に出て、それが寒い日なので、風邪を引いてしまった。そういうことがないように、一定の年からは、少なくとも冠婚葬祭からは引退することを世間の常識にしたらいい。自由で幸福な生活は、そんな簡単なことでも叶えられる。
 



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